真田信幸から信之への改名と上田、沼田9万5千石の大名
関ヶ原の戦いで徳川家康の東軍についた真田信幸は、戦後の論功行賞で大幅な加増を受けます。
信幸が領有していた沼田領2万7千石は安堵され、父昌幸の所領上田領3万8千石も信幸に与えられました。さらに、3万石が加増され合計9万5千石の大名となったのです。
犬伏での話し合いの結果、父や弟と袂を分かち徳川に味方をした信幸に対し家康は昌幸の所領を信幸に与えると約定しました。このような場合空手形になることが多いのですが、家康は約束を守りさらに加増までしたのです。
徳川家の重臣本多忠勝の娘稲姫を正室にしていたことは真田家にとって幸運でした。姻戚関係がなければ昌幸と信繁の助命も叶わなかったでしょう。
信幸は関ヶ原の戦い後に「信之」に改名しています。父から受継いだ「幸」の字を捨てたのです。これからは徳川の一大名として生きていくという決意の証だったのかもしれません。
加増を受けた信之の当面の課題は領国の経営でした。第二次上田合戦の影響で領内は荒れていました。戦火から逃れるため避難していた農民が戻らず、徳川軍によって苅田が行われたことで逃散する農民も多かったのです。
逃散とは農民が耕作を放棄して山奥や隣接する国に逃げてしまうことです。逃散が長引くと田地は荒地になり税収減となります。
信之は領内の農民に対し合力米(ごうりょくまい)の支給や、減税政策を実行して、農民が再び村落に戻り耕作に従事するための環境を整備したのです。