真田信繁の手紙 九度山での生活 借金と酒
1611年6月4日 真田昌幸は配流の地九度山で65年の生涯を閉じます。
昌幸に従い九度山で生活をともにした小山田治左衛門、池田長門守、原出羽守、青木半左衛門、川野清右衛門、窪田角左衛門たち家臣は、昌幸の一周忌が済んだころにはそのほとんどが上田に戻っています。
信之は家臣たちの労をねぎらい、青木半左衛門には百貫文、窪田角左衛門と川野清右衛門にはそれぞれ六十貫文を与えたことが「先公実録」に記載されています。他の家臣たちにも同じように恩賞を与え、希望する者はそのまま真田家に残ることを許可しました。
九度山に残ったのは、信繁一家と高梨内記や青柳清庵らごくわずかの家臣でした。昌幸は真田家の当主であったため、たとえ罪人の身でも多くの家臣がお供をして生活の面倒をみていましたが、信繁は真田家の二男なのでそのような配慮はありません。
そのため、昌幸が死去して以降の信繁たちの様子はほとんど伝わっていませんが、信繁が家族や家臣に宛てた手紙により、その生活をうかがい知ることができます。
■真田家の家臣 池田長門守に宛てた手紙
借用する金子のうち十両を受け取りました。
収支報告書と金子と銀子を受け取りました。
米を母に届けて欲しいという依頼。
池田長門守から贈られた銀子二十匁(もんめ)に対し、気づかいは無用と述べる。
屋敷が火災にあい急遽家を建て直しました。
■真田家の家臣 原半兵衛に宛てた手紙
所領の管理に対する報告を受けて満足しています。
所領から獲れた米は慌てて換金しなくてよい。
相場が安い間は売らずに、回復してから換金してください。
■真田家の家臣木村綱茂に宛てた手紙
綱茂が信繁にお歳暮として鮭を贈ったことへの返礼。
特にかわったこともないので安心してください。
生活が苦しく難儀しています。
■真田家の家臣河原左京に宛てた手紙
壺に焼酎を詰めて欲しい。
焼酎が手元にないなら次の機会にお願いしたい。
焼酎を詰めたあとは口をしっかり閉めて紙を貼ってください。
■義理の兄(姉 松の夫)小山田茂誠宛ての手紙
昨年から急に老け込み病気になってしまった。
年をとってしまったことが残念でなりません。
歯が抜けてしまい、髭は白くなり黒い部分が少なくなりました。
まず、これらの手紙からわかることは、昌幸と同様に信繁も相当生活が苦しかったことが伺えます。信濃には信繁の所有する領地があり、池田長門守と原半兵衛が管理していたようです。
所領の管理に関する報告を受けて満足した様子が見て取れます。また、収穫したお米の換金時期や換金した金子や銀子の受取りについても記載しています。
しかし、領地から獲れる米だけでは生活していくことができず、信之からの仕送りや家臣からの寄付、借金によって生活費を賄っていました。
昌幸生存中は一緒に出かけたり、読書をしたり、時には昌幸から兵法指南を受けるなど、気晴らしができていた信繁ですが、昌幸がいなくなり家臣たちの多くが帰国してしまうと、閑散とした九度山は寂しい場所となります。
そんな生活の中で、楽しみにしていたのがお酒でした。信繁は相当な酒好きであったようで、酒に関する手紙や逸話が多く見られます。河原左京に宛てた手紙には、酒がこぼれないようにしっかり封をしてくれと依頼しています。酒で気を紛らわせていたのでしょう。
また、真田家で連歌が流行していると聞いた信繁は、自身も連歌を学んでいたようです。なかなか上達しないと手紙に書いています。
年を重ね老いていく自分の姿に、このままここで朽ち果てるのでは?という不安にさいなまれ、失意の日々を送っていた信繁の姿が想像できます。
一方では、妻や側室との間に多くの子をもうけ、穏やかな生活を送っていたことも事実です。九度山では嫡男の大助を含め、男子二人、女子三人が誕生しています(信繁の子供たちについては別ページに掲載します)
信繁がどのような思いを抱いて九度山で蟄居生活を送っていたのかは誰にもわかりませんが、最終的には大坂城に入城して、武将として生きる道を選んだのです。