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真田信繁の九度山脱出と大坂入城 狼狽する家康「籠城したのは親か子か?」

方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)で豊臣家の重臣片桐且元(かたぎりかつもと)が徳川家康の元に走ると、徳川、豊臣間の緊張は一気に高まります。


もはや戦を避けることが困難な状況になると、噂を聞きつけた牢人たちが日本各地から大坂に集まりだしたのです。豊臣秀頼と淀殿は、大坂城の守りをより強固なものにするため、改修を行い牢人たちに金子を与え戦に備えます。


いかに難攻不落の大坂城といえども、徳川の大軍を迎え撃つにはそれなりの兵力が必要となります。当然、豊臣恩顧の大名たちへの期待が大きかったと思いますが、徳川政権下で日の目を見ずにくすぶっていた有力な牢人たちに対しても勧誘活動をしていました。


九度山で蟄居していた真田信繁の元にも誘いがあり、一説には秀頼は信繁に50万石を与えることを約定したとされています。「大坂御陣山口休庵咄」によると、信繁は6千人の兵を従え大坂城に入城し、そのいでたちは兜や具足などを赤で統一した赤備えであったと記載されています。


秀頼からの誘いや50万石の話しはともかくとして、蟄居生活を送っていた信繁が6千人の兵を従えたなどという記述には誰しもが疑念を感じることでしょう。


9万5千石の大名となっていた兄信之でも6千人の兵を動員するのは容易ではありません。まして日々の生活にも困窮していた信繁にそれだけの兵を集めることなどできようはずがありません。


ただし、「駿府記」などいくつかの史料には、秀頼が当座の資金として黄金200枚、銀30貫目を信繁に贈ったということが書かれています。豊臣家から多額の軍資金が事前に信繁にわたっていたことになります。この資金を使って軍勢を集めたのでしょうか?


6千人は誇張だとしても数千人程度なら可能だと思われます。ただし、赤備えの武具を用意するには相応の時間が必要です。豊臣家が本格的に戦の準備を始めたのは片桐且元が大坂城から退去した1614年11月1日(旧暦では10月)からだといわれています。


信繁が入城したのは11月10日ごろと考えられているので、もし信繁に関する逸話が真実なら、且元が出奔するより前から連絡をとりあい戦いの準備をしていたことになります。


信繁が大坂城に入城した際の兵力については、「真田家譜」では150人、他の史料でも100~300人となっています。


信繁と家臣数名が極秘裏のうちに九度山を脱出し、大坂城に向かう途中で信繁に心を寄せる真田家の家臣や、九度山周辺の地侍、牢人衆が合流して数百名の規模になったと考えるのが妥当だと思われます。


6千人か?数百人か?どちらかが正しいのかわかりませんが、大坂城に集結した信繁たち牢人衆は、人生の一発大逆転を狙い相当な意気込みで参陣したのです。


信繁が九度山を脱出するときの逸話が残っているのでいくつか紹介します。

九度山で生活する真田家の監視と世話を任されていたのが紀州藩浅野家です。浅野家では九度山周辺の百姓に真田家を監視させていました。


信繁は日ごろのお礼と称して百姓たちを屋敷に集め酒を振る舞ったのです。信繁の大盤振る舞いに喜んだ百姓たちは酒をしこたま飲んで酔いつぶれます。この隙に信繁は九度山を脱出してしまったのです。


酔いからさめた百姓たちは信繁に一杯食わされたことを知るとたいそう悔しがったとされています(武林雑話)


これと似たような話しはいくつかあり、信繁が百姓に酒を振る舞いその隙に九度山から脱出したところまでは同じですが、これはあらかじめ信繁と百姓たちが打ち合わせた猿芝居だとしています。


14年も九度山で暮らした信繁は、その間に百姓たちと交流を重ね親しくなっていました。信繁が九度山を脱出したあとで、村人たちが徳川家や浅野家から御咎めを受けないようにするための策だとされています。


「幸村君伝記」には別の逸話が載っています。信繁は九度山を脱出するときのことを考え、常日頃から抜け道や間道を調べて目印を付けていた。


いざその時が来ると、目印を頼りにあっという間に九度山を脱出してしまった。しばらくして浅野の追手が屋敷を探索したところ、信繁の姿はなく閑散とした屋敷内には木枯らしの音だけが鳴っていた。


「仰応貴録」では、信繁は時々蓮華定院で碁を打っていた。そのとき高野聖から「徳川と豊臣の間で戦が起こる気配で、関所が築かれている」という情報が入ります。


これを聞いた信繁は、「牢人のわたしは餅を食べ、碁を打ち何とも気楽な身分である」と話し戦には興味がないことをアピールします。


厠に行くと見せかけ外に出た信繁は家臣に脱出の準備を命じ、あったという間に九度山から姿を消してしまった。


これらの話しには不自然な部分が多く実話とは思えませんが、信繁が九度山を脱出したことは確かであり、あらかじめ何らかの準備をしていたか、協力者がいたのでしょう。


信繁が大坂城に入城したことを知らされた徳川家康は驚き、戸に手をかけたまま「籠城したのは親(昌幸)か子(信繁)か?」と家臣に尋ねます。


戸がガタガタと鳴るほど震えていた家康ですが、「籠城したのは子のほうです」と家臣が答えると安堵した表情になりました。


「手が震えたのは真田を恐れたのではなく、助命したにもかかわらず、またしても裏切ったことに対する怒りから震えたのだ」と弁解したのです。


この逸話は「幸村君伝記」や「仰応貴録」に載っていますが、真田昌幸がすでに亡くなっていることは浅野家から報告を受けていたはずです。


昌幸や信繁のことなどすっかり忘れていたところ、突然真田の名前が出てきたので狼狽してしまったということも考えられますが、信憑性は低いと思われます。