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大坂冬の陣 徳川家康、秀忠の出陣と本陣茶臼山

大坂冬の陣徳川家康の本陣茶臼山と秀忠の本陣岡山布陣図

大坂冬の陣における徳川軍の兵力は20万ともいわれています。徳川家康はこの大軍をどのように編成したのでしょうか?


まず、駿府の家康は10月1日に諸大名に出陣を命じています。当時の幕府は駿府の家康と江戸の秀忠による二元政治が行われていたため、家康は西国の大名、秀忠は東国の大名を担当したようです。


家康は70歳を超える高齢でしたが、秀忠に指揮を任せることはせずに自ら出陣をしています。江戸の留守を六男の忠輝に命じ、豊臣恩顧の大名である、福島正則、加藤嘉明、黒田長政に対しては江戸に留置きとします。三者を江戸に残したのは大坂方への内通を警戒したからだと思われます。


さらに、上杉景勝、佐竹義宜、伊達政宗を秀忠軍の先鋒に任命したのです。上杉景勝は関ヶ原の戦いで西軍につき、佐竹義宜は東軍、西軍どちらにも加担しなかったのですが、西軍への内通が疑われた人物です。伊達政宗は東軍に味方するも、領土拡大の野心が強く戦後も幕府から警戒されていました。


家康はこの三名を秀忠の先鋒として出陣させることで、背後から襲われる心配をなくしたのです。後顧の憂いを失くし万全の態勢を整えた家康は10月11日に駿府を発ちます。九男 義直、十男 頼宣を従え10月23日には二条城に入城しています。


一方、関東の軍勢をまとめた秀忠は、10月21日に上杉景勝ら先鋒隊を出陣させ、自身は23日に江戸を発っています。関ヶ原の遅参で面目を失った秀忠は、同じ失敗を繰り返さぬよう行軍速度を上げたため、11月10日には伏見城へ到着しています。


家康と秀忠は作戦の確認を再度行い、それぞれ15日に二条城と伏見城を発ち18日に茶臼山(ちゃうすやま)で合流しました。家康が本陣を置いた茶臼山は大坂城の南に位置します。


大坂城の東側は平野川と大和川が流れる湿地帯で多数の深田があり、西側は木津川と大坂湾、北側は淀川と天満川によって守られていました。唯一南側だけが平坦な土地であり、大坂城の弱点と言われていたのです。


家康は茶臼山に本陣を置き、秀忠は岡山に陣を敷きました。家康は本格的な攻撃を行う前に、大坂城の周囲に付城(つけじろ)を築きます。付城は敵の城を攻撃するための拠点となる城で、向城(むかいじろ)とも呼ばれます。


かつて豊臣秀吉は東播磨の別所長治(べっしょながはる)を攻めたときに、30余りの付城を築き兵糧攻めを行っています(三木の干殺し


家康が大坂冬の陣でどの程度の付城を普請したのかは不明ですが、難攻不落の大坂城を落とすために長期戦を覚悟して臨んだことが伺えます。