徳川家康は難攻不落の大坂城を攻めるため、まず第一段階として城の周辺に築かれていた豊臣方の拠点を潰していきます。
木津川口の戦いの勝利で大坂湾への出入り口を押さえると、次の鴫野・今福の戦いでは三重、四重の柵を構え守りを固める豊臣勢を打ち破り、城内と城外の連絡網を絶つことに成功します。
大坂城周辺に普請していた付城もこのころには完成したとみられ、大坂城攻撃の準備はほぼ整っていました。
家康は豊臣勢の拠点で残っていた博労淵(ばくろうぶち)砦を攻略するために水野勝成(みずのかつなり)に命じて塹壕を掘らせると、砦の攻略を石川忠総(いしかわただふさ)、後詰めを浅野長晟(あさのながあきら)に命じたのです。
一方、木津川口の戦いで勝利した蜂須賀至鎮は木津川河口に陣取り豊臣勢の動きを警戒していました。商人や村人たちから入手した博労淵砦に関する情報を家康の元に届け、自分も攻撃軍に加わることを願い出ていたのです。
攻撃の準備に取り掛かる水野勝成、石川忠総らの動きを見た至鎮は、木津川口での手柄を確実なものにするため、博労淵砦への攻撃を画策します。
至鎮の祖父 蜂須賀小六(正勝)は、豊臣秀吉が信頼した古参家臣であり、蜂須賀家は豊臣恩顧の大名として警戒されていました。そのため、何としても目立つ手柄をあげ家康や秀忠に認めてもらう必要があったのです。
11月29日 石川軍と蜂須賀軍はそれぞれ船を用意して上陸すると砦への攻撃を開始します。急襲された博労淵砦では兵が混乱して収拾のつかない状況となり、大坂城に退却する者や逃亡する者が相次ぎました。
砦は短時間で陥落して徳川勢の手に落ちます。攻撃を受けた時、博労淵砦の守将 薄田兼相(すすきだかねすけ)は不在でした。薄田兼相(隼人 はやと)は、神埼の遊郭に入り浸っており、女遊びをしていたその間に砦が落とされてしまったのです。
そのため薄田は味方から「橙武者(だいだいむしゃ)」と呼ばれたそうです。「橙」はおおぶりで見た目は立派だが酸味が強いので正月用の飾りにしか使えないことから「見掛け倒し」を意味します。
薄田は「見掛け倒しの役立たず」と嘲笑されたのです。この逸話が事実がどうかは不明です。事実なら切腹ものの大失態ですが、薄田が処罰されたという記録は残っていません。豊臣方は人材が不足していたので薄田を処罰できなかったのもしれません?
薄田兼相は、大坂夏の陣 道明寺の戦いで奮戦したため、徳川勢からは勇将の評価を受けています。「橙武者」と「勇将」両方の逸話が残っている武将が薄田兼相(隼人)です。
博労淵の戦いと同じ日に徳川方の水軍(九鬼守隆、向井忠勝など)が豊臣方の水軍を敗走させ、福島砦を守っていた大野治胤を大坂城に退却させています(野田・福島の戦い)
木津川口の戦い、鴫野・今福の戦い、 博労淵の戦い、 野田・福島の戦いすべてに勝利した徳川家康は、豊臣勢を大坂城に押し込めることに成功します。
大坂城の北側と西側にあった豊臣方の拠点を制圧した徳川勢の攻撃目標は、南側にある出城 真田丸へと移っていったのです。
■石川忠総(いしかわただふさ)・・・徳川家の重臣 大久保忠隣(おおくぼただちか)の次男。家康の命令で石川家成(いしかわいえなり)の養子となります。
大久保忠隣の改易に連座するも、石川家を相続していたことが考慮され許されると、大坂の陣で功績をあげ、最終的に近江国 膳所藩(ぜぜはん)7万石の藩主となりました。
■水野勝成(みずのかつなり)・・・水野忠重(みずのただしげ)の嫡男。父忠重は家康の母於大の方の弟なので、家康と勝成は従兄弟になります。勝成は敵陣に切り込みいくつもの首級をあげる猛将でしたが、不仲であった父の家臣を斬殺する事件を起こし出奔します。
14年間諸国を放浪し仙石秀久や黒田長政、小西行長、立花宗茂の元に身を寄せ数々の戦で手柄をあげます。家康のとりなしで父と和解しますが、翌年その父が加賀井重望(かがのいしげもち)に惨殺される事件が起こります。
勝成は水野家の家督を相続して三河国刈谷3万石の領主になると、大坂の陣では自ら切り込み、敵陣を切り崩す活躍を見せ、勝成の家臣が薄田兼相、明石全登の首をあげます。最終的に備後福山藩10万石の藩主となり善政を行い領民から慕われました。