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真田丸(さなだまる)の構造 史料による通説と新説

真田丸絵図(さなだまるえず) 大坂冬の陣 真田丸の史料*半円形の真田丸を描いた絵図

大坂冬の陣 最大の見せ場である「真田丸の攻防」に関しては、様々な史料に記載がありますが、真田丸の構造に関しては不明な点がいくつもあり謎となっています。

史料に記載されている内容を紹介しながら、真田丸の構造に関する通説を検証します。

■真田丸の築城
真田丸の築城については、真田信繁が突然大坂城の南側に出丸を築いたとする史料が多いのですが、その中にあって「大坂日記」では、最初に出丸を築いたのは後藤又兵衛守だと記載しています。

また、「大坂御陣覚書」では、後藤又兵衛が遊軍を命じられたので、信繁に交代したと記しています。

「武徳編年集成」・・・信繁が後世に名を残そうとして真田丸を築いた

「幸村君伝記」・・・大坂城南東の玉造口に掘を巡らし井楼(せいろう)をつくり要害を築いた(井楼は物見櫓のこと)

「大坂御陣山口休庵咄」・・・玉造口高台に三方から掘を巡らせ、三重柵と櫓、井楼、幅七尺の武者走りをこしらえた。

「大坂日記」・・・大坂城南の平野口に後藤又兵衛が出丸を築いていた。真田信繁が「自分は信用されていないのでここをひとりで守らせて欲しい」と懇願したため任された。

「大坂御陣覚書」・・・大坂本城の巽(たつみ)に百間四方の出丸を築いて後藤又兵衛が守っていたが、又兵衛は遊軍(ゆうぐん)を命じられたので代わりに信繁が守将となった(巽は南東の方角、百間は約180メートル、遊軍はどの部隊にも属さず臨機応変に動くことのできる部隊を意味します)

大坂城は、東側に平野川と大和川、西側に木津川と大阪湾、北側に淀川と天満川が流れる天然の要害だが、唯一南側だけが平野(へいや)に面した土地であり、大坂城の弱点となっていた。この南側の防御を固めるために信繁が真田丸を築いたというのが通説になっています。

信繁が大坂城に入城したのが11月10日前後、真田丸の攻防が始まったのが12月4日なので、通説に従えば、1か月弱で真田丸を築城したことになります。

大坂城には10万人近い牢人衆が集まったとされているので、突貫工事を行えば築城は可能だと考えられます。

■真田丸の構造
大坂の陣は戦国の最後に行われた合戦であり、その後は平和な時代が続いたため史料の紛失や焼失が少なく、比較的良質な史料が残されてます。

真田丸の構造についても、真田丸の姿を描いた絵図がいくつも残されていますが、伝聞や想像で描いたと思われるものもあり、すべてが良質の史料というわけではありません。

真田丸の姿を描いた絵図としては以下のものがあります。
「大坂冬の陣絵図」
「大坂冬の陣図屏風」
「大坂冬御陣図」
「浅野文庫 諸国古城之図 摂津真田丸」
「摂州大坂夏陣図」
「大坂陥城之旧図」
「卯ノ年天王寺表御合戦諸備図」
「慶長廿乙卯摂州大坂夏御陳図」
「慶長乙夘大坂図」
「第十九号二枚之内慶長十九年摂州大坂城攻守之図」
「大坂真田丸加賀衆挿ル様子図」
「大坂冬陣備立之図」

多くの絵図では大坂城南側惣構の前に半円形の真田丸が突き出た姿で描かれています。これらの絵図や残された史料から真田丸の特徴をあげてみます。

・真田丸の形状は半円形
・大きさは東西180メートル、南北220メートル
・三方は掘と塀で囲まれている
・塀の高さは約9メートル
・塀の外側、堀の底、堀の外側に柵が設置されている
・塀には攻撃用の狭間がある
・堀の深さは最深部で約8メートル
・掘は空堀と水堀の両方がある
・所々に櫓が設置されている
・左右には攻撃用の出入り口がある


真田丸の構造においては以上のような特徴が通説となっていました。

しかし、2016年1月6日に放送されたNHK「歴史秘話ヒストリア」では、専門家チームのレーダー探査と分析により、真田丸は半円形ではなく四角形もしくは台形であるとの説が浮上しました。

航空写真の分析などもふまえた詳細な調査結果はとても興味深い内容でした。見逃してしまった方のために内容をかいつまんで紹介します。

これまで真田丸の場所は、現在の大阪天王寺区三光神社や真田山町が有力と考えられていましたが、電磁波による地中レーダー探査を行ったところ、天王寺区餌差町(えさしちょう)の地中に大きな溝があることが判明します。

さらに、精巧な地中レーダーで探査した結果、大阪明星学園の南側に人工的に造られた溝が確認されました。溝の幅は40~45m、深さは8mもあり、この溝が真田丸の堀跡である可能性が高まります。

これを検証するため、奈良大学の千田嘉博(せんだよしひろ)さんが、太平洋戦争終結直後に米軍が撮影した大阪市内の航空写真を分析します。

空襲で焼け野原になった餌差町は地形がむき出しになっていました。堀跡と推測できる溝を追っていくと台形のような形が現れます。

真田丸の形状は半円形が通説となっていました。真田丸を描いた絵図の多くが半円形をしていたからです。

その中にあって、広島浅野家が所有する「浅野文庫 諸国古城之図」に収録されている「大坂真田出丸(摂津真田丸)」には四角い形状の真田丸が描かれていて、掘の広さ二四間との記載もありました。

二四間はおよそ43メートルです。レーダー探査による溝の幅40~45mと一致します。

実際に「大坂真田出丸(摂津真田丸)」を手にしながら現地を歩いてみると、絵図に描かれている堀と同じ形状の道路が残っていて、曲がる方向なども一致しました。

「大坂真田出丸(摂津真田丸)」は、江戸時代初期に描かれたものですが、想像や伝聞で描いたのではなく、実際に現地を調査して描画した可能性が強くなりました。

「大坂真田出丸(摂津真田丸)」には東側に6つの寺が描かれていますが、現在も心眼寺(しんがんじ)など3つの寺が残っていて、その敷地は周囲のマンションの3階ほどの高さがあります。

信繁は、元々高い崖の上に建っていた寺を真田丸の城壁に利用したと推測できます。

従来、真田丸は大坂城南側の平野に面した場所に造られ、周囲は野原だと考えられていましたが、江戸時代初期の絵図を見ると、心眼寺周辺にはたくさんのお寺が描かれていることがわかります。

いわゆる寺町だったのです。真田丸は寺町の一番奥に位置しており、周囲は野原ではなく市街地だったことが伺えます。

周囲が野原であれば大軍を擁した徳川勢は三方から一気に攻め込むことができますが、周囲は寺町であり道も狭かったため大軍の利を生かすことができませんでした。

突撃した先鋒部隊は真田丸から狙撃され堀の底で次々に討たれます。狭い道路には兵がひしめき、後ろから突撃してくる兵に押し出される格好で次々に掘に落ちて被害が拡大したのです。

最初の攻撃で大きな打撃を受けた徳川軍は、竹束で弾丸を防ぎながら、真田丸に向かい仕寄(塹壕)を掘り進め、築山(つきやま)と呼ばれる盛土をした射撃用の陣地を築いて鉄砲で反撃をしたのです。

大坂冬の陣を描いた「大坂冬の陣図屏風」には、真田丸の兵士が数人がかりで鉄砲を撃つ様子が描かれています。真田丸には「大狭間筒(おおはざまづつ)」と呼ばれる大型の鉄砲が装備してありました。

当時の火縄銃の有効射程距離は約100~150mですが、大狭間筒は300mもあったそうで、この大狭間筒で築山と仕寄を狙い撃ちにしたため、徳川勢は真田丸の攻略に手を焼いたのです。

以上が放送された番組の概要です。

真田丸の場所や形状、戦い方などこれまでの通説とは違う考え方が紹介されていて、真田丸研究に新たな材料を提供してくれました。

以下に参考になるサイトを掲載しておきます。
NHK「歴史秘話ヒストリア」徹底解明!これが"真田丸"だ~地中に残された幻の城~

広島市立図書館「諸国古城之図」「摂津真田丸」

大坂冬の陣の真田丸跡地を訪ねる

大阪明星学園に「真田丸顕彰碑」が設置。

【新発見!!!】松江歴史館で「真田丸」詳細絵図が見つかりました

新発見した「大坂真田丸」絵図に描かれた新たな情報について(奈良大学学長の千田嘉博先生の報告より)