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大坂冬の陣 真田丸の攻防 史料による通説を検証

大坂冬の陣布陣図・真田丸の攻防
*大坂冬の陣布陣図・真田丸の攻防


大坂冬の陣最大の見せ場は何といっても真田丸の攻防です。木津川口の戦い、鴫野・今福の戦い、 博労淵の戦い、 野田・福島の戦いで豊臣方はすべて敗れています。


徳川勢では佐竹義宣、上杉景勝、蜂須賀至鎮の軍に被害がでました。佐竹家は家老の渋江政光が討死していますが、死傷者の多くは豊臣勢が占めています。


しかし、真田丸の攻防では徳川勢に甚大な被害が出ます。冬の陣における徳川方の死傷者の80%が真田丸の攻防だったといわれています。


なぜ徳川勢にこれほどの被害がでたのでしょうか?真田信繁はどのような戦い方をしたのでしょうか?史料を元に検証してみます。


真田丸の攻防を描いた史料としては「幸村君伝記」「大坂御陣山口休庵咄」「大坂御陣覚書」「大坂陣日記」「東大寺雑事記」「井伊家文書」「駿府記」「真武内伝」などがあり、この他にも大名家に残された書状や公家、寺社の日記などから戦いの様子をうかがい知ることができます。


真田丸のある大坂城南側に配置された徳川軍の武将は、前田利常、榊原康勝、井伊直孝、松平忠直、藤堂高虎、伊達政宗などで、その兵力はおよそ5万といわれています。

前田利常(まえだとしつね)1万5千
榊原康勝(さかきばらやすかつ)1千
古田重治((ふるたしげはる))1千
脇坂安元(わきざかやすもと)1千
寺沢広高(てらざわひろたか)1千
井伊直孝(いいなおたか)4千
松平忠直(まつだいらただなお)1万
藤堂高虎(とうどうたかとら)4千
伊達政宗・秀宗(だてまさむね・ひでむね)1万
他3千


大坂城南側の平野口 真田丸に真田信繁、黒門口、八丁目口、谷町口、松屋町口には明石全登、木村重成、長宗我部盛親、織田頼長、大野治長の軍勢が布陣して徳川軍と対峙します(後藤又兵衛は遊軍)

真田丸(真田信繁)5千
明石全登(あかしたけのり)4千
木村重成(きむらしげなり)4千
長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)6千
織田頼長(おだよりなが)3千
大野治長(おおのはるなが)1千
*豊臣、徳川各隊の兵力は史料によって異なるので目安です。


真田丸の攻防は12月4日からですが、数日前から小競り合いが始まっていました。真田丸の前方には笹山と呼ばれる小さい山があり、信繁は密かに笹山に兵を送って、城攻めの準備に取り掛かっている徳川勢に対し妨害活動を行っています。


岡山に本陣を置いた徳川秀忠は前田利常に笹山の占領を命じます。12月4日の早朝、前田利常の重臣 奥村摂津守と本多政重は先鋒部隊を率いて笹山に攻めかかります。


しかし、この行動を事前に予測していた信繁は、兵を真田丸に戻していたのです。笹山に真田の兵はなく、前田勢の攻撃は空振りに終わりました。


奥村摂津守たちは勢いそのままに真田丸の近くまで兵を進めると、真田丸の守備兵から馬鹿にする言葉が浴びせられます。


「笹山に大軍を送り狩りでもしていたのか?そんなに暇なら攻めてきたらどうか?」と前田勢を嘲笑したのです。


この兆発に憤慨した奥村摂津守の部隊が真田丸に攻撃を仕掛けたことで戦端が開かれました。


徳川家康と秀忠は事前の偵察で真田丸の守りが予想以上に堅固なことから、むやみに攻撃を仕掛けないよう諸将に命じていたのですが、前田勢の攻撃を見た井伊直孝、松平忠直の軍勢は、前田の抜駆けだと思い、自分たちも遅れてはならぬと真田丸に攻撃を行ったのです。


こうして真田丸の攻防が始まりました。深い堀と三重の柵で防御を固めた真田丸に徳川勢が突撃を敢行します。信繁は敵を十分に引きつけてから鉄砲の一斉射撃で応戦しました。


矢と弾丸が雨のように降り注ぎ兵士たちを次々に倒していきます。前田利常の先鋒部隊はもともと笹山攻めが目的であったため、銃弾から身を護る竹束などの装備が不十分でした。そのため、真田丸の兵から狙い撃ちされて多くの損害を出したのです。


前田利常、井伊直孝、松平忠直は撤退を命じますが、手柄を上げようと意気込む兵士たちの突撃を止めることは容易ではありません。


この状況を見た信繁は真田丸の東西に設置しておいた出入り口から兵を突撃させます。この攻撃で徳川勢は完全に混乱状態となりました。逃げようとする者、攻撃しようとする者が入り乱れ銃撃の餌食になっていったのです。


信繁のこの戦法はまさに徳川の大軍を二度に渡り退けた父昌幸の戦い方そのものです。狭所に大軍を誘い込み、雨のように銃弾を浴びせ、伏兵の攻撃で敵に大きなダメージを与えた第一次上田合戦第二次上田合戦の再現と言えます。


真田丸の塀際と堀底は徳川方の死傷者で埋め尽くされます。特に前田勢は甚大な被害を受けたとされ、前田利常は命令に違反して攻撃を開始した奥村摂津守に対し、「軍法に背いたうえ見苦しい振る舞いにより敵だけでなく味方からも嘲笑された!私に恥をかかせたことは言語道断である」と述べ、奥村を更迭しました。


徳川勢に甚大な被害が出たのは、信繁の巧みな戦略にもよりますが他の要因もありました。徳川方では難攻不落の大坂城を力攻めのみで落とそうとは考えていませんでした。


大坂城内の武将に対し徳川方に寝返るよう調略を行っています。その誘いに応じた南条元忠(なんじょうもとただ)が徳川勢を城内に引き入れる手はずを整えていました。


しかしこの裏切りは豊臣方の知るところとなり、合戦が始まる前に元忠は切腹させられていたのです。


合戦が始まりしばらくすると大坂城内で大きな爆発が起こります。この爆発は豊臣方の武将 石川康勝の家臣が誤って火薬箱を落としたことで起こった事故だったのですが、元忠の切腹を知らない徳川勢は、裏切りの合図だと勘違いして八丁目口、谷町口、松屋町口へ突撃を敢行してしまったのです。


竹束を楯にして真田丸および大坂城惣構の掘に向かい突撃を仕掛ける、藤堂高虎、寺沢広高、榊原康勝の軍勢に対し、万全の体制で待ち構えていた木村重成、長宗我部盛親、大野治長らの兵が激しい銃撃を加えます。


調略の失敗を悟った徳川勢ですが、時すでに遅く雨のように降り注ぐ銃弾に身動きがとれず多くの死傷者を出してしまったのです。


この日の戦いで徳川勢に大きな損害がでたことは京、大坂周辺にあっという間に広まります。

「東大寺雑事記」には、寄衆(徳川勢)のうち約1万5千が討取られた。

「春日社司祐範記」には寄手(徳川勢)の被害は数万人。

「孝亮宿禰日次記」には松平忠直の軍勢のうち480騎、前田利常の軍勢のうち300騎が死んだ。雑兵の死者数は不明。


これらの史料の数字をそのまま鵜呑みにすることはできませんが、前田家や井伊家、松平家に残された文書などから、相当な被害がでたことが推測できます。


これほど被害が拡大したのは「何としてでも手柄を上げたい!」と考える武士たちの「功名争い」が大きな要因になったと考えられます。


大坂冬の陣は関ヶ原の戦い以来14年ぶりの戦(いくさ)です。14年という長い年月は戦場での経験を過去のものにしていました。


戦国の世を戦い抜いた武将たちの多くが高齢となり代替わりが行われています。実戦経験のない者や経験の浅い者が多くを占めるようになっていたのです。


各大名家では、これらのことを考慮して「軍令を守る」ことを家臣に徹底しました。先駆け、抜駆けなどの軍令違反に対しては厳罰に処すると定めていたのです。


しかし、いざ実戦が始まると、手柄を上げようと我先に敵陣に突撃するものが後を絶たず、命令系統は機能しなくなりました。被害の多かった前田家、井伊家、松平家ではこの傾向が強かったようです。


徳川秀忠は軍令違反を犯した者に厳罰を与えようとしますが、これを家康がなだめ穏便にすませたといわれています。大敗北の直後に厳しい処分を行えば味方の士気は低下して、豊臣に寝返る者が出ることを警戒したのです。


12月4日の真田丸の攻防以降、戦線は膠着状態となります。


堅牢な大坂城を力攻めで落とすのは無理だと判断した家康は。戦略を変更して豊臣方と和睦に向けた協議を開始したのです。