大坂夏の陣始まる! 樫井(かしい)の戦い 塙団右衛門討死
大坂冬の陣の和睦により豊臣と徳川の戦いは一時的に停戦となります。
大坂城では和睦に反対する牢人衆たちの不満が高まり再戦を望む声が日増しに強まると、主戦派の大野治房が大坂城の蔵を開け、配下の牢人衆に米や金銀を与える行為におよびます。
冬の陣の講和で曖昧になっていた牢人衆の去就問題がここへきて表面化したのです。
大坂方を監視していた京都所司代板倉勝重はこの情報を江戸に伝えると、徳川家康と秀忠は上洛の準備にとりかかりました。
牢人衆の動きを知られてしまった大坂方では常高院、大蔵卿局らを駿府に派遣して弁明に努めます。
大坂方の弁解を聞いた家康は2つの条件を提示してどちらかを飲むよう迫ります。
1、秀頼は大坂城を明け渡し大和もしくは伊勢へ国替えすること
2、大坂城を明け渡さないのであれば、牢人衆を大坂から退去させること
大坂方にとってはどちらも承諾できる条件ではないためこれを拒絶しました。家康は再び大坂城を攻めるべく出陣の準備にとりかかります。
家康は駿府を発ち18日に二条城に到着。秀忠は4月10日に江戸を発ち21日に京都に到着しています。家康は全国の大名にも出陣を命じその軍勢は15万を超えたとされています。
これに対し大坂方では軍議を開き、徳川についた筒井定慶(つついじょうけい)、浅野長晟(あさのながあきら)を攻める作戦を立てます。
浅野長晟は浅野長政の次男で、父の跡を継いだ兄幸長(ゆきなが)の病死により紀州藩2代藩主となっていました。
秀吉と姻戚関係にあった長政は豊臣政権を支える五奉行の筆頭になった人物です。豊臣の味方になると期待されていた浅野家ですが、関ヶ原の戦い以降一貫して徳川についていました。
大坂方では、大野治房と後藤又兵衛がおよそ2千の兵を従えて出陣します。まずは筒井定慶(つついじょうけい)が籠る郡山城を落とし夏の陣の初戦を制します。
大坂方では浅野家の統治に反発する一揆勢を味方につけており、彼らの助力を得て浅野の軍勢を叩こうとしたのです。
大野治房、塙団右衛門(塙直之)らの兵は、徳川についた堺を焼き打ちすると、塙団右衛門たち先鋒隊が樫井に向けて進軍します。
ここで浅野の軍勢と遭遇した塙団右衛門は、主力である大野治房隊の到着を待つことなく戦いを仕掛けました。
塙団右衛門は同じく先鋒隊であった岡部則綱(おかべのりつな)と先陣を争い、浅野軍の亀田高綱隊、上田重安隊に突撃を行ったとされています。
亀田、上田の両隊は塙団右衛門らの攻撃をかわしながら、味方の部隊が潜んでいる樫井に誘い込むと、豊臣方の先鋒部隊に向けて一斉に反撃を開始しました。
この攻撃で塙団右衛門は討死!岡部則綱が負傷して退却します。一揆勢と連動して浅野勢を攻撃する作戦は、功を焦った先鋒部隊の攻撃によって失敗に終わりました。
武士として功名を立てたい!という強い思いが塙団右衛門の命を奪ったのです。