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大坂夏の陣 天王寺の戦い毛利勝永の活躍!本多忠朝、小笠原忠脩討死

大坂夏の陣 天王寺の戦い布陣図
*大坂夏の陣 天王寺の戦い布陣図

道明寺の戦い、八尾・若江の戦いで敗れた大坂方は、茶臼山と天王寺を防衛ラインと定め守りを固めます。


茶臼山には真田信繁、天王寺口には毛利勝永、大野治長、岡山口には大野治房が陣を置き徳川勢を迎え撃つ体制を整えました。


四天王寺南門には毛利勝永隊を中心に浅井周防、結城権之助、竹田永翁、篠原又右衛門、石川肥後が配されます。


徳川勢の先鋒部隊も天王寺に集結して陣を構えると、毛利勢の前面には、本多忠朝(ほんだただとも)、榊原康勝(さかきばらやすかつ)、小笠原秀政(おがさわらひでまさ)、保科正光(ほしなまさみつ)、真田信吉(さなだのぶよし)、秋田実季(あきたさねすえ)、浅野長重(あさのながしげ)の各隊が布陣します。


両軍の間で小競り合いが始まると、毛利隊からの発砲により戦端が開かれました。鉄砲による激しい銃撃戦で双方に死傷者がでると、戦いは次第に白兵戦へと展開します。


兵力で圧倒する徳川勢に対しここが最期と必死で抵抗する豊臣勢は予想外の善戦を見せます!特に毛利勢の働きは凄まじく、毛利隊と戦った徳川の各隊に多くの死傷者が出ています。


毛利隊と真っ向から衝突した本多隊と小笠原隊の損害は甚大で、本多忠朝と小笠原忠脩が討取られ、忠脩の父秀政も深手を負い落命しました。


討死にした本多忠朝は本多忠勝の次男です。真田信之の正室稲姫の弟にあたります。


本多忠勝が1610年に病没すると、伊勢桑名藩10万石は嫡男の忠政が継ぎ、次男の忠朝には上総大多喜5万石が与えられます。


忠朝は大坂冬の陣で酒に酔い大坂方に敗れるという不覚をとり、家康から「親にも似ぬ不出来物」と叱責されました。そのため夏の陣では討死覚悟で敵に突撃したといわれています。


いくつかの史料に忠朝の討死の様子が記されているので紹介します。


徳川軍 天王寺口の先鋒である本多忠朝隊は前面に陣取った毛利勝永隊と対峙します。


毛利隊の前面には麦畑が広がり敵の侵入を防ぐための堀が構築され、堀には兵が渡れるように橋が掛けられていました。


毛利隊の銃撃により戦端が開かれると、この麦畑を挟んでしばらくの間銃撃戦が展開され、その後両陣営による白兵戦へと進みます。


戦場は狭く徳川勢は大軍の利を生かすことができなかったため両者互角の戦いとなります。


守りの固い毛利隊を攻略できない徳川勢は、逆に毛利隊の反撃を受け先鋒が崩されると、味方の不甲斐ない戦いぶりに激怒した本多忠朝は愛馬「百里」で毛利隊の中に突撃します。


これを見た毛利隊の雨森伝右衛門ら数名が忠朝に襲い掛かります。あっという間に二十名近い敵に囲まれると、下馬した忠朝は鬼の形相で足軽を斬り伏せます。


次々に襲い掛かる敵の攻撃を受けた忠朝は奮戦しますが、全身に二十カ所以上もの傷を負い雨森伝右衛門に討取られました。


別の史料では、忠朝を討取ったのは鵜川左大夫だとしています。


混戦の中、左大夫は鹿角黒具足の武者と戦います。左大夫の従者が背後に回り込み、武者が振り向いたところを喉めがけ槍を突き刺しました。


左大夫も槍をくりだし武者を二度突いて仕留めたのです。後日その武者は本多忠朝だと判明しました。


こうして稲姫の弟 本多忠朝は討死しました。


本多忠朝と同じく毛利勝永隊に討取られた徳川方の武将が小笠原秀政と忠脩父子です。


小笠原秀政は信濃松本8万石の初代藩主で、夏の陣当時は息子の忠脩(ただなが)に家督を譲っていました。


秀政の正室 登久姫は家康の嫡男信康の娘なので、忠脩は家康の曾孫(ひまご)になります。


小笠原秀政は前日の若江の戦いで防戦に終始して積極的に攻撃しなかったことを家康から叱責されていました。


本多忠朝同様に名誉挽回のため意気込んで戦いに臨んでいたのです。


戦いが始まると小笠原隊は敵の竹田永翁隊を切り崩します。苦戦する本多忠朝隊の救援に向かいますが、横合いから大野治長隊の攻撃を受け、さらに毛利の兵が小笠原隊を取り囲みます。


馬上の忠脩は槍を振るい敵と渡り合いますが、落馬したところを槍で串刺しにされ討死します。


兄を助けようとした弟の忠真(ただざね)も敵の攻撃を受け全身7カ所に傷を負うも一命はとりとめました。


父の秀政は深手を負い久宝寺へ退却しますが、その日のうちに命を落としています。


生き残った忠真は家康から「鬼孫」と賞され、小笠原家の家督を継ぐと、その後豊前小倉15万石に栄転しました。


このように天王寺口の豊臣方は毛利勝永隊を中心に徳川方と互角に渡り合います。毛利隊が奮戦している中、信繁は家康本陣への突撃を敢行しますがあと一歩のところで逃します。


真田勢が壊滅したことで大坂方の敗戦が確定します。毛利隊は大野隊と協力して豊臣勢の退却をはかります。


徳川方は藤堂高虎、井伊直孝の軍勢を差し向けて追撃しますが、逆に大坂方の反撃を受け大きな損害をだします。井伊家では旗奉行の広瀬、孕石の両名が討たれます。


毛利隊と大野隊の活躍で豊臣勢は大坂城に退却することができました。