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松代藩家督争い 真田信之93歳の大往生

松代藩主 真田信之系図(さなだのぶゆきけいず) 家督争い
*松代藩主 真田信之系図(さなだのぶゆきけいず)


大坂夏の陣で大坂方は敗北し、豊臣秀頼と淀殿は家臣とともに自害して果てます。真田信繁は討死し息子の大助は秀頼に殉じました。


真田信之の長男信吉と次男信政は徳川方として天王寺の戦いに参戦しています。激しい戦いの中、真田家も敵の首級27をあげますが、その代償として多くの家臣を失いました。


大坂の陣では身内の信繁が敵方についた真田家ですが、戦後の論功行賞では加増などはなかったものの、本領を安堵されました。


信之は信吉に沼田領の統治を任せ、自身は上田の町づくりに心血を注ぎます。


1622年江戸城に呼び出された信之は、松代への国替えを命じられます。将軍秀忠から直々に言い渡された移封を断れるはずもなく、信之はこの命令を受け入れるのです。


信之が家臣に宛てて書いた手紙が残っています「このたびは信州松代の地を将軍様よりいただくことになった。お家の面目が立ちうれしく思っている。これは将軍様のご命令であり、子孫のためでもあるので、松代に移ることにする。」


父昌幸や弟信繁と必死に守ってきた父祖の地から離れることは、信之にとって辛いことではありましたが、家を存続させるためには受け入れるしかなかったのです。


信之は上田を引き払うときに検地帳などの書類をすべて焼いてしまったそうです。そのため新たに上田の領主となった仙石忠政は検地をやり直さなければならず苦労したといわれています。信之のささやかな抵抗だったのでしょうか。


信之は松代に国替えとなりましたが、信吉の沼田領はそのまま安堵されたので、真田家は松代10万石と沼田3万石を領有することになったのです。


松代城は武田信玄が統治した時代 海津城(かいずじょう)と呼ばれていました。上杉謙信へ対抗するための最前線の要地であり、信玄は重臣の高坂弾正を置き守りを固めていました。


武田家が滅ぶと織田、上杉、豊臣、徳川と領主が変遷し、その過程で「待城」→「松城」と改名され、江戸時代中頃に「松代」となりました。


■真田家のお家騒動
沼田を統治していた信吉が1634年に病没します。信吉には長男の熊之助(くまのすけ)と次男の信利(のぶとし)がいましたが、まだ幼かったため信政が一時的に沼田藩を継ぐことになります。


1656年 高齢の信之は幕府に隠居を願い出てこれが認められると、松代藩を信政に譲ります。沼田藩は信利が相続するのですが、その2年後に信政が死去してしまうのです。


信之は松代藩の家督を信政の子幸道(ゆきみち)に相続させようとしますが、これに信利が異を唱えたのです。


信利の父信吉は真田家の嫡流であり、真田宗家を継ぐのは自分だと主張し幕府に訴えたのです。


老中酒井忠清(さかいただきよ)は、幸道がまだ2歳であったことを理由に相続の願い出を許可しませんでした。


酒井忠清の後ろ盾を得た信利と、松代藩の家臣たちが支持する幸道との間で激しい対立が生じます。お家騒動に発展すれば取り潰しの可能性もでてきます。


危機に直面した真田家を救ったのは信之でした。高齢の身でありながら幕府と掛け合い幸道が相続することを認めさせたのです。


信利が統治した沼田はこの騒動により独立した藩となり、信利は初代沼田藩主となります。こうしてお家騒動寸前までいった真田家の家督相続は無事解決しました。


安堵した信之は93歳でこの世を去ります。


宗家を相続できなかった信利の治世は荒れ沼田の領民は苦しめられたといわれています。


年貢の税率を上げ使役に酷使するなど、あまりの悪政に耐えかねた領民が幕府に直訴したことで沼田藩真田家は改易となりました。


これに対し松代藩真田家は幕末まで存続します。松代藩最後の藩主となった10代幸民(ゆきもと)は、明治になると伯爵を授与されました。


松代藩真田家以外にも真田家は生き残っています。


信之の叔父 真田信尹(さなだのぶただ)は旗本となり、その系統は幕末まで存続したとされています。


また、信繁の子大八は伊達家の重臣片倉家で育てられ、成人すると仙台藩士に取りたてられます。


真田守信(さなだもりのぶ)を名乗りますが、幕府から信繁の身内ではないかと追求されると、信伊の孫だと説明して難を逃れます。


その後、片倉守信と改名し、守信の系統は仙台真田家と呼ばれ幕末まで存続しました。