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日新公(じっしんこう)いろは歌

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「日新公いろは歌」は、戦国時代の薩摩の武将 島津忠良(しまづただよし)が創作した武士としての生き方を説いた47首の歌です。

忠良の号が日新斎(じっしんさい)だったことから「日新公いろは歌」と呼ばれました。

忠良は島津家の分家である伊作家(いざくけ)の当主でしたが、島津宗家の内紛を収めると息子の貴久(たかひさ)が宗家を継ぎ島津氏第15代当主になりました。

忠良は貴久を補佐して国政にあたり、家臣の育成や城下の整備に力を入れ、島津氏繁栄の基礎を築いたため、「島津氏中興の祖」と呼ばれています。

宗家を継いだ貴久も優秀な人物で、一族の争いを制して薩摩国を統一しました。さらに、貴久の息子たち(義久、義弘、歳久、家久)も皆優れた能力を持ち、島津氏の領土拡張に貢献したため島津四兄弟と呼ばれています。

忠良が創作した「日新公いろは歌」は仮名文字で書かれた和歌で子どもたちにも覚えやすく、薩摩藩の郷中教育の教本とされ、代々受け継がれていきました。

「日新公いろは歌」は子どもだけでなく、藩の重役たちも「い、と、も」の三首を常に詠んでいたとされています。

いにしへの道を聞いても唱へてもわかおこなひにせすはかいなし
(昔から伝わる優れた言葉や教えを口で唱えたとしても実行しなければ役に立たない)

科(とが)ありて人をきるともかろくすないかすかたなもただひとつなり
(罪を犯した人でも簡単に斬ってはいけない。上に立つ者の心がけしだいで刀は人を殺すこともあれば、人を活かすこともある)

もろもろの国や所の政道は人にまつよくをしへならはせ
(政治を行う者は人々に正しい教えを広めるための努力をしなければならない)