薩摩藩の御家騒動 近思禄崩れとお由羅騒動
*"薩摩藩8代藩主 島津重豪(しまづしげひで)
薩摩藩10代藩主島津斉興(しまづなりおき)には、斉彬(なりあきら)、斉敏(なりとし)、久光(ひさみつ)の三人の男子が誕生しました。
他にも二人の男子が産まれたようですが、幼くして亡くなっています。
次男の斉敏は備前岡山藩池田家の養子となり岡山藩7代藩主となっていたため、島津家の家督を継ぐ者は斉彬と久光のどちらかになります。
嫡男の斉彬が家督を相続すると思われていましたが、斉興はなかなか家督を譲ろうとせず、やがて藩を二分する対立へと発展しました。
なぜ斉興は斉彬に家督を譲らなかったのでしょうか?
それには斉興の父斉宣(なりのぶ)の時代に起きた「近思禄崩れ(きんしろくくずれ)」と呼ばれる御家騒動(おいえそうどう)の影響がありました。
斉興の祖父で8代藩主の島津重豪(しまづしげひで)は、藩校造士館や武芸場 演武館を設立して教育の普及につとめる一方で、西洋の学問や技術に興味を持ち、特に蘭学を好んだことから蘭癖(らんぺき)と揶揄されました。
重豪は蘭学研究に関する施設を積極的に建設していきます。元々派手好きであった重豪は、諸大名との交際費や私生活でも散財したため、島津家の財政はひっ迫します。
1787年重豪は隠居して嫡男の斉宣が9代藩主となります。
斉宣は近思禄派(きんしろくは)の樺山主税(かばやまちから)、秩父太郎(ちちぶたろう)を家老に登用して財政再建にとりかかりました。
近思禄派とは朱子学の教科書「近思禄」の勉強会を通して結成されたグループのことです。
藩の実権を握った樺山と秩父は、緊縮政策を実施して重豪が建設した施設の閉鎖などを行いました。
1809年斉宣は参勤交代のため江戸に向かいますが。これを好機と見た重豪は藩政に介入して近思禄派に対し弾圧を開始したのです。
樺山と秩父を含む13名が切腹を命じられ、遠島や謹慎なども含めると77名が処分されました。重豪は近思禄派を登用した斉宣を藩主の座からひきずりおろすと、斉宣の嫡男 斉興を10代藩主としたのです。
重豪は1833年に亡くなるまで実権を握り続け藩政をリードしました。さすがの重豪も晩年になると財政再建に乗り出し、調所広郷(ずしょひろさと)を登用します。
重豪が没すると斉興は調所を家老に任命してさらに財政再建を加速させました。
薩摩藩には500万両の借金があったとされていますが、調所は商人たちに砂糖販売の権利を与えるかわりに、返済を無利子の250年払いとすることを認めさせます。さらに琉球、清との密貿易を行い50万両の蓄財に成功しました。
こうして、薩摩藩は斉興の時代になりようやく財政を立て直すことに成功したのです。しかしここで問題が持ち上がります。
斉興の嫡男で次の藩主と目されていた斉彬が蘭学に傾倒していたのです。幼少の頃から聡明であった斉彬は曽祖父である重豪に大変可愛いがられ、その影響で斉彬も蘭学を学ぶようになります。
重豪は斉彬をともなってオランダ商館医シーボルトと会談を行うなど、斉彬に西洋の学問や知識を伝えていたのです。
幼少の頃から西洋の学問を学んだ斉彬は成人すると、西洋の事情に通じた人物として知られるようになります。
このような斉彬の姿は蘭癖であった重豪を思い起こさせ、斉彬が藩主になると再び財政が悪化するのでは?との危惧を斉興に抱かせたのです。そのため斉興は斉彬に家督を譲ることをためらっていました。
さらに事情を複雑にしたのが斉興の側室である由羅でした。由羅は自分の子久光を藩主の座につけようと画策し、調所広郷を取り込み反斉彬派を形成したのです。
この動きに対し危機を抱いた斉彬と斉彬を支持する一派は、調所広郷の密貿易を幕府に暴露して斉興を強制的に隠居させる手段に打って出ました。
幕府に追求された調所は罪を一身に背負い服毒自殺します。これに憤慨した斉興は、斉彬派の処罰に乗り出します。
由羅や斉興派の家老 島津久徳(しまづひさのり)の暗殺を企てたとして、斉彬を支持する近藤隆左衛門(こんどうりゅうざえもん)、高崎五郎右衛門(たかさきごろうえもん)、山田清安(やまだきよやす)ら6名に切腹を命じます。
弾圧は続き、日置島津家の赤山靭負(あかやまゆきえ)も切腹して果て、さらに江戸詰家老の島津久武(しまづひさたけ)にも切腹が言い渡されました。
この弾圧はのちに「お由羅騒動(高崎崩れ)」と呼ばれるようになります。「お由羅騒動」では14名が切腹、10名が遠島となり、蟄居・謹慎を含めると、およそ50名の藩士が処分されました。
大久保正助(利通)の父次右衛門(じえもん)も鬼界島に遠島になり、正助(しょうすけ)もまた連座して、記録所書役助(きろくじょかきやくたすけ)を免職され謹慎処分となったのです。