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幕末江戸の剣術道場 練兵館、玄武館、士学館

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参勤交代の制度により江戸時代の大名は原則として1年おきに江戸在府が義務付けられました(1862年以降は3年に1回に緩和)

主君に従い多くの藩士が江戸で生活を送っていたこともあり、江戸の町にはさくさんの剣術道場がありました。

道場は剣の腕を磨く場所というだけでなく、交流の場であり、情報交換の場でもあったのです。

数ある道場の中でも特に人気を集めた道場が練兵館、玄武館、士学館で「江戸三大道場」とも呼ばれました。

■練兵館(れんぺいかん)・・・神道無念流(しんどうむねんりゅう)の斎藤弥九郎(さいとうやくろう)が創設した道場。

越中の農家に生まれた弥九郎は江戸に出て神道無念流の岡田十松(おかだじゅうまつ)に剣術を学びます。水戸藩の藤田東湖(ふじた とうこ)はともに剣を学んだ同門。

師範代となった弥九郎は、十松病没後も後進の指導にあたり、29歳のときに独立して九段に練兵館を開きました。

厳しい稽古によって心身を鍛えた練兵館は「力の斎藤」とも呼ばれ、他流試合も積極的に行っていたとされます。

弥九郎の長男 新太郎(しんたろう)は諸国の道場をめぐり他流試合や稽古を行い、その実力を認めた長州藩や大村藩では藩士に神道無念流を学ばせます。

長州藩では桂小五郎が練兵館の塾頭となり、高杉晋作や伊藤俊輔、井上聞多、品川弥二郎も入門してその腕を磨きました。

大村藩の渡辺昇(わたなべのぼる)が桂のあとを引き継ぎ練兵館の塾頭になっています。薩摩藩では篠原国幹(しのはらくにもと)が学んでいます。

■玄武館(げんぶかん)・・・玄武館は北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)の千葉周作(ちばしゅうさく)が創設した道場。

千葉周作の幼少期については諸説あり詳細は不明ですが、父から剣術を習ったとも、父に従い東北地方や関東地方を転々としながら剣術を学んだともいわれています。

下総国松戸(現在の千葉県松戸市)に移り住んだ周作は、一刀流 浅利義信(あさりよしのぶ)の道場に入門して稽古に明け暮れます。

義信の娘と結婚して道場を継いだ周作ですが、稽古方法などをめぐる考え方の違いから、義信の元を去り新たな流派 北辰一刀流を立ち上げます。

一刀流から独立した周作は他流試合を積極的に行い門弟を増やすと、1822年江戸日本橋に玄武館道場を開きました。

多くの道場では木刀での組太刀稽古が中心で、形稽古も八段階あり習得までには多くの時間と費用がかかりました。

周作の玄武館では、竹刀を用いた打込み稽古を積極的に取り入れることで、実戦に即した稽古を行うことができました。また、形稽古を三段階と簡略化したため、習得までの時間を短縮することができたのです。

周作の玄武館は隆盛を極め、最盛期には3千人を超える門弟がいたそうです。周作の弟定吉(さだきち)も剣技に優れていたため、桶町(おけまち)に玄武館の別道場(桶町千葉道場)を開いています。

定吉の子重太郎(じゅうたろう)、さな子とともに門弟を指導して北辰一刀流の普及に貢献しました。

水戸藩9代藩主 徳川斉昭(とくがわなりあき)は周作の剣術を高く評価して剣術師範としたため、水戸藩士の多くが北辰一刀流を学んでいます。

北辰一刀流四天王の庄司弁吉(しょうじべんきち)と海保帆平(かいほ はんぺい)は水戸藩士。

土佐の坂本龍馬(さかもとりょうま)、幕臣の山岡鉄舟(やまおかてっしゅう)、浪士組を結成した清河八郎(きよかわはちろう)、新選組の山南敬助(やまなみけいすけ)、藤堂平助(とうどうへいすけ)、新選組隊士で高台寺党を結成した伊東甲子太郎(いとうかしたろう)なども北辰一刀流の道場で剣の腕を磨きました。

■士学館(しがくかん)・・・士学館は鏡新明智流(きょうしんめいちりゅう)の桃井春蔵(もものいしゅうんぞう)が1773年に創設した道場。

鏡新明智流を継いだ者は代々桃井春蔵を名乗り、幕末の4代目桃井春蔵(田中直正)のときに鏡新明智流は最盛期を迎えました。

沼津藩士の子として生まれた田中直正(たなかなおまさ)は、直心影流(じきしんかげりゅう)を学んだのちに江戸に出て、3代目桃井春蔵(直雄)の士学館に入門します。

剣の腕に優れていた直正は頭角を現し4代目桃井春蔵を継承しました。

土佐藩士 武市半平太(たけちはんぺいた)が士学館に入門すると、直正はその剣技を高く評価して塾頭(じゅくとう)を任せるようになります。

士学館は土佐藩士を中心に多くの門弟を集め「江戸三大道場」のひとつに数えられるようになりました。

岡田以蔵(おかだいぞう)、上田馬之助(うえだうまのすけ)、逸見宗助(へんみそうすけ)などの剣客が士学館で腕を磨きました。