水戸学(みとがく)と尊王攘夷思想(そんのうじょういしそう)
*水戸光圀(みとみつくに)
水戸学(みとがく)とは、大日本史(だいにほんし)編纂の過程で確立した学問・思想の体系です。
水戸藩2代藩主水戸光圀(みとみつくに)が日本の歴史書である大日本史の編纂を開始したのが明暦三年(1657年)とされています。
光圀の死後も編纂事業は継続され、明治三十九年(1906年)に大日本史は完成しました。
大日本史編纂の過程で、水戸藩では儒学や朱子学、国学、神道、古事記、日本書紀などの研究が盛んになり多くの学者を輩出しました。
江戸時代中期には一時下火になった水戸学ですが、後期になると藤田幽谷(ふじたゆうこく)など優れた学者が登場し注目を集めるようになります。
*藤田東湖(ふじたとうこ)
幽谷の子 藤田東湖(ふじたとうこ)や幽谷の弟子である会沢正志斎(あいざわせいしさい)が尊王攘夷を唱えたことで、水戸藩は尊王攘夷論の中心的な存在となりました。
*会沢正志斎(あいざわせいしさい)
尊王は天皇を尊ぶ思想、攘夷は夷狄 (いてき)を排斥するという思想です。
江戸時代の日本は中国、オランダなど一部の国を除き貿易や渡航を禁止する鎖国政策をとっていました。
幕末になると西欧諸国はアジア進出をはかり、1840年にはイギリスと清国との間でアヘン戦争が勃発します。
敗れた清国は賠償金の支払いと香港の割譲、上海などの開港を認めてしまうのです。
清国の敗戦は日本に衝撃を与えました。西欧諸国の脅威が目前に迫っているという危機感から、国防や海防に関する議論が高まります。
領土を守り日本古来の伝統、文化を維持するためには、外国人を排斥するべきだとする攘夷思想が支持されるようになります。
さらに、日米和親条約、日米修好通商条約を結んだ幕府への批判から、尊王思想が台頭し、天皇を尊び外国人を排斥するという尊王攘夷思想が全国に広がっていったのです。