錦江湾に入水した西郷吉之助と月照 辞世の句
将軍継嗣をめぐる一橋派と南紀派の対立は、井伊直弼が大老に就任したことで流れが南紀派に傾きます。
一橋慶喜擁立のため、斉彬帰国後も江戸で工作を続けていた西郷吉之助ですが、井伊の政治力によって紀州の徳川慶福(とくがわよしとみ)が14代将軍に決まると、状況報告のため薩摩に戻りました。
井伊の強引な政治手法に危機をいだいた島津斉彬は、朝廷の力を背景に幕政改革を進めることで井伊の失脚を画策します。
自ら藩兵五千を率いて上洛することを決めた斉彬は、準備のため西郷を京に派遣しました。
西郷は近衛忠煕(このえただひろ)や月照(げっしょう)の力を借りて朝廷工作を進めますが、出兵直前に斉彬が逝去したことで上洛計画は頓挫したのです。
斉彬の死を知った西郷は殉死を決意しますが、月照に説得され思いとどまったとされています。
その頃、京では大老井伊直弼によって派遣された老中間部詮勝(まなべあきかつ)らによる弾圧が始まっていました。
一橋慶喜擁立や戊午の密勅(ぼごのみっちょく)に関わったとして、月照も捕縛の対象になっていたのです。
近衛忠煕は月照の身柄を西郷に託します。西郷と月照は伏見や大坂に潜伏していましたが、幕府の追求が厳しくなったため薩摩で身を隠すことにします。
福岡藩士平野国臣(ひらのくにおみ)らの協力を得て薩摩入りした西郷一行ですが、藩の上層部は月照の保護に難色を示します。
斉彬の死後、藩の実権を握った前藩主 島津斉興(しまづなりおき)と家老 島津久宝(しまづひさたか)は、幕府に睨まれることを恐れ月照の受け入れを拒否したのです。
幕府の追手が薩摩に向かっているとの知らせを受けた藩上層部は、月照の「日向送り(ひゅうがおくり)」を西郷に命じます。
「日向送り」とは「東目送り(ひがしめおくり)」や「永送り(ながおくり)」ともいわれる国外追放処分ですが、暗黙の了解で国境付近での殺害を意味していました。
窮した西郷は月照とともに果てることを決意します。西郷は月照と月照の下僕重助(じゅうすけ)、平野を伴い、藩が用意した船で夜の錦江湾にこぎだすと、船上で酒を酌み交わします。
自分の運命を悟った月照が辞世の句を詠みます。
曇りなき心の月もさつま潟おきの波間にやがて入りぬる(曇りのない月のように私の心は澄んでいる、月も私もやがて波間にきえゆく運命なのだ)
大君のためには何か惜しからんさつまの瀬戸に身は沈むとも(大君(天皇)のためなら、この身が薩摩の海に沈んだとしても惜しくない)
西郷も返歌を詠みます。
ふたつなき道にこの身を捨小舟波たたばとて風吹かばとて(二つとない命だがここでこの身を捨てよう。波が立とうが風が吹こうが進むだけである)
句を詠んだ西郷と月照はともに抱き合い冬の凍てつく海に身を投じたのです。
入水した二人をどのように引き揚げたのか詳細は不明です。
平野や重助、船頭によって助け出された二人は、浜辺の坂下長右衛門(さかしたちょうえもん)宅で介抱を受けました。
月照は命を落としますが、西郷は三日後に蘇生して一命を取り留めます。
自分だけが生き残ってしまったことを西郷は終生恥じたとされます。
この入水事件はその後の西郷の生き方にも大きな影響を与えました。