扶持米6石 奄美大島での自炊生活 大久保に宛てた西郷の手紙
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*奄美大島 阿丹埼湊
安政6年(1859年)1月、西郷吉之助(隆盛)は、薩摩藩の黒糖船「福徳丸」で奄美大島に送られます。
奄美大島の阿丹埼(あたんざき)に着いた西郷を迎えたのは、薩摩藩の島詰目付 木場伝内(こばでんない)だとされています。
木場と西郷は以前に面識があったようで、木場の世話で美玉新行(みたましんぎょう)という人物が所有していた空き家を借りて生活をするようになります。
西郷は罪人として島送りになった訳ではないので行動はある程度自由があり、大久保や吉井、税所、有村とは手紙のやりとりをしています。また、藩からは年6石(のちに12石)の扶持米が支給されたので、食べることには困りませんでした。
借家で自炊生活を始めた西郷ですが、慣れない島での暮らしに不満がたまっていたようで、大久保らに宛てた手紙には、「島に来て30日が経ちますが一日も晴天の日がなく雨ばかりでひどいものです」と愚痴をこぼしています。
また、島民の印象に関しては「毛唐人」「ハブ性」といった言葉を使っています。「言葉が通じない野蛮な人」といった意味のようです。
島民に対し侮蔑的な表現をしていますが、その一方で「島の女性は美しく、京や大坂の女性もかなわない」とも言っています。
島民は西郷を罪人だと思っていたらしくあえて近づこうとはしませんでした。島に渡った当初は島民との交流はなく、孤独な生活を送っていたことがうかがえます。