薩摩藩の奄美大島支配 過酷な黒糖政策
奄美大島を含む奄美群島は古来から日本や中国と交易を行い独自の文化を形成していました。
15世紀に尚巴志(しょうはし)が琉球を統一して琉球王国が成立すると、奄美群島は琉球への従属を余儀なくされます。
16世紀に入ると琉球王国による統治が進み、奄美群島は琉球文化圏の一部となりました。
徳川家康が江戸に幕府を開くと、幕府の許可を得た島津家久(しまづいえひさ)は1609年に琉球への侵攻を開始します。
奄美群島を制圧した島津軍は琉球本土に兵をすすめ、出兵からわずか一ヵ月あまりで琉球を降伏させました。
島津氏は奄美群島に代官を派遣して統治を進め実質的に奄美を支配下におさめたのです。
サトウキビから作られる黒糖は薩摩藩の財源となり、島民はサトウキビ栽培に従事しました。
薩摩藩では7代藩主 島津重年(しまづしげとし)の治世に木曽川の治水工事を幕府に命じられ(宝暦治水)莫大な費用を費やします。
さらに8代藩主 島津重豪(しまづしげひで)の代になると深刻な財政難に陥りました。蘭癖(らんぺき)と揶揄された重豪が蘭学研究に資金を投じたため、借金の額が膨れ上がったのです。
財政再建を託された調所広郷(ずしょひろさと)は利益を生む黒糖に目を付け、黒糖の専売を敷き管理体制を強化しました。
黍横目(きびよこめ)と呼ばれた役人がサトウキビの栽培や収穫に目を光らせ、島民はサトウキビ一片たりとも口にすることはできませんでした。
栽培に適した土地の多くはサトウキビ畑となり、島民は食べるものにも窮したといわれています。
薩摩藩の罰則は厳しく、黒糖を盗んだ者は死罪、質の悪い黒糖を製造した者には足枷(あしかせ)、黒糖やサトウキビを舐めた者には鞭打ちの刑が執行されました。
島民の生活に必要な日用品も藩が管理していたとされ、貨幣ではなくサトウキビや黒糖で売買が行われました。
製造された黒糖は藩によって安く買い上げられ、反対に日用品は市価の何倍もの価格で島民に販売されました。
決められた税を納められない島民は借金をかかえ、借金が返済できなくなると家人(やんちゅ)と呼ばれる奴隷へと身を落としていったのです。
薩摩藩の搾取を目の当たりにした西郷吉之助(隆盛)は、大久保らに宛てた手紙の中で「松前藩が行ったアイヌ人に対する苛政よりも酷い」と述べています。
島民の困窮を知った西郷が島役人を諫めたとする伝説が残っていますが真実かどうかは不明です。
奄美大島から召還された西郷は国父である島津久光の命令を無視したため罪人となりますが、1年半後に許されると、その後は大久保とともに藩政をリードする存在になります。
沖永良部島から戻った直後、西郷は藩に上申書を提出して島民の窮状を訴えました。上申書によって島民の待遇がどの程度改善されたのかは不明です。
その後も専売制は継続され、奄美群島の黒糖が薩摩の財政を支えるという構造は変わりませんでした。