沖永良部島への流罪 西郷を救った土持政照(つちもちまさてる)
*西郷隆盛の配流地 沖永良部島 伊延、和泊
わずか二か月で徳之島を離れた西郷吉之助(隆盛)は、沖永良部島に移送されます。西郷を幽閉する牢は代官所の敷地内に作られていました。
伊延(いのべ)に到着した西郷を代官所のある和泊(わどまり)まで移動させるため役人が馬を用意していたのですが、西郷は「自分は幽閉の身なので歩けるのはこれが最後になるかもしれない」と述べ徒歩で移動しました。
牢獄は二間四方と狭く草葺の屋根と格子状の壁で囲まれていました。
一間はおよそ1.8m=1坪=2畳なので、二間四方はおよそ3.6m四方=2坪=4畳という計算になります。
出入口は施錠され外にでることができないので厠(かわや)は牢内にありました。
牢に入った西郷は一日中端座して瞑想していたそうです。
およそ4畳という狭い空間の中に厠があり、風呂にも入れない状況下に置かれた西郷の身体には垢がたまり牢獄内には異臭が立ち込めます。
さらに四六時中雨風が吹き込むという劣悪な環境と粗末な食事のため西郷の体力は急速に低下し生死のふちをさまよいました。
そんな西郷に救いの手を差し伸べたのが土持政照(つちもちまさてる)です。
西郷の監視役であった間切横目(まぎりよこめ)の土持政照は泰然自若とした西郷の態度に感銘を受け代官所に待遇の改善を求めました。
藩からの命令書には西郷を「囲いに召し込み、昼夜開かざるよう番人を付けるべし」と書かれていました。
土持は「屋外の牢」とはどこにも書かれていないことに着目し、自費で購入した古い家を移築して西郷のために屋内に座敷牢を建てたのです。
政照は座敷牢が完成するまでの間自宅に西郷を引き取り看病したとされています。
新しい座敷牢は格子で囲まれてはいるものの屋内にあり二間半四方といくぶん広くなりました。
厠は板で仕切られていたため衛生面での改善も見られ、さらにお風呂まで備わっていました。
命を救われた西郷は政照に感謝し、沖永良部島を出るときには義兄弟の契りを交わしました。
体力が回復した西郷は座敷牢の中でひたすら読書に励みおよそ1年3か月の間に1000冊以上の本を読んだとされています。
入牢中は何もするこがとがないので読書に集中できたのでしょう。
安政の大獄で処刑された吉田松陰も野山獄に投獄されたときには読書三昧の日々を送っています。
体力が回復し座敷牢での生活にも慣れた西郷は島の子供たちに儒学や朱子学の講義を行い島民との交流を持つようになります。
さらに、同じく流罪になっていた書家の川口雪蓬(わがぐちせっぽう)から書と漢詩を教わり知識を深めていったのです。
西郷は親戚に宛てた手紙の中で、「弟子が20人にほどいて朝から昼までは素読、夜は講義を行っている」と伝えています。
この座敷牢での生活は西郷の人間力を高めた時期だといえます。
座敷牢という厳しい環境ではあったものの平穏な日々を送っていた西郷ですが、薩摩とイギリスとの間で戦(薩英戦争)が起こると感情が高ぶります。
奄美大島の代官 米良助右衛門(めらすけえもん)に宛てた手紙の中で、「御国家の御災難只々傍観仕り候いわれこれなく、憤怒脳を焦がし候事」と述べ、薩摩の一大事に戦闘に参加することもできず、ただ傍観者にならざるを得ない状況にやり場のない怒りをあらわしています。
この様子を見た土持は西郷のために脱出用の小舟を作ろうとしたとする逸話が残っています。
薩英戦争からおよそ半年後の元治元年(1864年)2月召喚が決まり西郷は沖永良部島をあとにしました。