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薩英戦争(さつえいせんそう)

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薩英戦争(さつえいせんそう)英国艦隊の侵入経路*薩英戦争英国艦隊の侵入経路

生麦事件で薩摩藩士の攻撃を受けた英国人四人のうちリチャードソンは落馬後に止めを刺され命を落とします。

マーシャルとクラークは本覚寺(ほんがくじ)、ボロデール婦人はイギリス居留地にそれぞれ逃れました。

本覚寺はアメリカ領事館となっていて、たまたま居合わせたヘボンがマーシャルとクラークを治療ました。

ヘボンはアメリカ人宣教師(医師でもある)で、ヘボン式ローマ字の考案者として知られています。のちに明治学院を創設し明治学院初代総理に就任した人物です。

リチャードソンの遺体は神奈川領事ヴァイスたちが現場に急行し横浜まで運びました。

事件当時英国公使オールコックは帰国して不在であったため、ジョン・ニール中佐が代理公使を務めていました。

事件を知った居留地の英国人らは憤慨して報復を求めますが、軍人であるジョン・ニールは戦争になる危険性を説き彼らを説得しました。

薩摩との衝突を回避したニールは本国と連絡をとりながら幕府に対し犯人逮捕と賠償金の支払いを求め交渉を行うことになります。

一方、英国人四人を殺傷した久光一行は居留地のある横浜を避け保土ヶ谷に宿泊します。横浜には多くの外国人が居住しており横浜港には艦隊も停泊していました。

久光は報復に備え警戒体制をとりますが、幕府に対しては「異人を襲ったのは不逞の浪人たちであり薩摩は関係ない」と事件への関与を否定したのです。

京に向け出発した久光はおよそ半月後に入京すると朝廷に幕政改革の報告を行い翌月には薩摩に戻っています。

事件への関与を否定する薩摩藩に対し幕府はさらなる説明を求めると、今度は「異人を斬ったのは足軽の岡野新助で事件後逃亡して行方知れず」と弁明したのです。

岡野新助は架空の人物であり、「犯人の処罰や引き渡しの要求に応じる気はない」という薩摩藩のメッセージでした。

幕府では外国奉行津田正路(つだまさみち)、老中板倉勝静(いたくらかつきよ)、老中水野忠精(みずのただきよ)らが順次英国との交渉にあたりますが、賠償金の支払いをめぐり意見の対立が起きます。

将軍家茂が上洛中で不在の中、老中小笠原長行(おがさわらながみち)が独断で賠償金10万ポンドを支払いこの問題に決着をつけたのです。

幕府から賠償金の支払いを受けた英国は、薩摩藩に対しても賠償金の支払いを求めました

ジョン・ニールは軍艦7隻を率いて鹿児島に向かうと薩摩藩との直接交渉に臨みます。

英国軍艦ユーリアス号を訪れた薩摩藩の使者に国書を渡すと犯人の引き渡しと賠償金の支払いを要求したのです。

薩摩藩は寺田屋事件で謹慎していた藩士の処分をとき総動員体制で英国との戦闘に備えると、奈良原喜左衛門、海江田信義、黒田了介、大山弥助、西郷信吾ら100名の藩士を選抜して決死隊を編成します。

決死隊の役割は英国艦隊に乗り込み敵兵に斬り込みをかけあわよくば敵艦を占領、拿捕することでした。

薩摩藩の使者とスイカ売りに変装した決死隊が英国艦に接近しますが、一部の者しか乗船を許されなかったためこの作戦は未遂に終わります。

英国側のジョン・ニールやキューパー提督は軍事力を背景に脅しをかければ幕府と同じく薩摩も要求を受け入れると思っていたようで、薩摩藩の蒸気船3隻を拿捕して乗務員(五代才助(友厚)、松本弘庵(寺島宗則)など)を捕虜にしたのです。

これを見た薩摩藩は宣戦布告と判断して一斉攻撃の命令を下します。海岸沿いに設置してあった砲台がいっせいに火を噴き戦争の火ぶたが切って落とされました。

錦江湾に轟音が響きますが薩摩藩の大砲は射程距離が短くその多くが英国艦隊には届きませんでした。

一方、攻撃を受けたイギリス艦隊では反撃に手間取ります。一説には幕府から得た賠償金が旗艦ユーリアスの弾薬庫付近に積んであったためこれが邪魔をして応戦が遅れたとされています。

体制を整えた英国艦隊はアームストロング砲で反撃を開始すると、薩摩藩の砲台を次々に破壊しますが、当日は台風並みの悪天候であったため、操縦が思うようにいかずに薩摩藩の砲撃を受けた旗艦ユーリアスでは艦長と副長が戦死します。

3日間の戦闘で薩摩藩の砲台はほぼ壊滅!拿捕された藩汽船3隻は放火され沈没!戦死者は5名、負傷者13名と少なかったものの藩士の屋敷160戸、民家350戸あまりが焼失し、鶴丸城の一部が破壊され、集成館と鋳銭局も焼失しました。

英国側の被害はユーリアスの艦長と副長を含む13名が死亡、50名が負傷し艦船1隻が大破しました。

薩摩藩では町の10分の1が消失し藩汽船3隻が沈没するなど物的被害が大きかったため負け戦という認識だったようですが、江戸からの知らせで英国側が負けを認めているという情報を得ると皆大喜びして祝宴を開いたそうです。

このときの経緯を鹿児島市長を務めた上村慶吉が晩年に証言しています。

薩摩から戻ってきた英国軍艦が横浜に入港すると、薩摩藩江戸留守居役 岩下方平(いわしたみちひら)が英国との交渉にあたりました。

岩下と上村を含む5名が英国艦に乗り込み将校たちから戦闘の様子を聞きます。

英国側の説明によると「英国艦隊が停泊している背後の山頂から薩摩藩は滅多矢鱈に砲撃を行った。

暴風雨で浪が高く操縦が思うようにできず弾薬も乏しくなったのでやむなく錨を切断して引き揚げた。

英国側は軍艦1隻が大破したが修理を施して何とか曳航した。このような始末だから今回の戦いは失敗であり祖国に対して申し訳がない。

ただし、城下の町は猛火が広がっていたから多少の損害を与えたようだ。結局のところこの戦いの勝利は薩摩である」

岩下は英国から得た情報を伝えるため上村たち4名を京に向かわせます。

薩摩藩京都留守居役内田仲左ヱ門から報告を受けた孝明天皇は薩摩の勝利を聞き大いに喜んだそうです。

京を発ち薩摩に到着した上村たちは家老川上但馬に事の詳細を伝えると、川上は久光と忠義両公に言上し両公も大喜びします。

翌日になると家臣たちの間にもこの話しが伝わり、川村純義(かわむらすみよし)らは祝宴を開いて大いに飲みあかし城下も大騒ぎだったそうです。

このように敗戦気分から一転して勝利の美酒に酔った薩摩藩ですが、欧米列強との軍事力の差はいかんともしがたくこれ以上の戦争継続は不可能だとの結論に至ります。

薩摩藩は岩下方平、重野安繹(しげのやすつぐ)らが英国との和平交渉にあたり最終的に英国からの軍艦購入と賠償金2万5000ポンドを払うことで決着がついたのです。

賠償金は幕府から借りて払いましたが返済はしなかったようです。リチャードソン殺害犯の処罰についてはうやむやになりました。

薩英戦争後、薩摩藩と英国は互いの力を認め合い友好関係を築いていきます。イギリスの後ろ盾を得た薩摩藩は軍事力の増強につとめ、やがて倒幕へと舵を切ることになるのです。