京都の治安回復を任された松平容保、松平定敬兄弟
*高須四兄弟
文久2年(1862年)4月 幕政改革を求める島津久光は兵を率いて上洛します。朝廷から勅書を得ることに成功した久光は5月12日に京を発ち江戸へ向かいました。
寺田屋騒動で同志を失った攘夷派は薩摩藩兵がいなくなった京で再び活動を活発化させます。
攘夷派の中でも過激な集団は暗殺(天誅)という手段を用いて敵対勢力を排除する行動に出ます。
7月に起きた島田左近(しまださこん)の殺害を機に公武合体派、佐幕派の人たちが狙われ京の治安は大いに乱れたのです。
京都の治安は幕府の機関である京都所司代が担当していましたが、所司代の与力、同心だけでは過激化する攘夷派に対応することができず治安悪化の要因になっていました。
幕府は京都所司代の上位機関として新たに京都守護職を設置して会津藩主松平容保(まつだいらかたもり)を任命します。
松平容保は会津藩兵1千人を率いて文久2年(1862年)12月24日に上洛すると金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)に本陣を置きました。
会津藩が入京する際には行列をひと目見ようと沿道に人垣ができ、見物していた人たちから歓声が上がったそうです。
容保は1月2日に参内して孝明天皇に拝謁すると、天皇から緋の衣(ひのころも、あけのころも)を賜ります。
容保主従が到着した頃の京は攘夷派の活動が最も過激になった時期でもありました。
容保は巡察隊を編成して日夜市内を巡回させ不逞浪士の取締りを強化したことで一時的に治安は改善します。
「会津肥後さま 京都守護職つとめます 内裏繁盛(だいりはんじょ)で公家安堵 とこ世の中 ようがんしょ」という歌が詠まれ会津は京の人々から感謝されました。
しかし、将軍家茂の上洛が近づくと再び攘夷派の動きが活発になり天誅が繰り返されます。
会津藩は正規の藩兵の他に別組織を編成して取締りを強化する方針をとります。そこで注目されたのが浪士組(ろうしぐみ)でした。
将軍家茂の警護役として上洛した浪士組のうち京に残った隊士たちを会津藩が預かり壬生浪士組(みぶろうしぐみ)を結成させたのです。壬生浪士組はのちに新選組と名を改めます。
元治元年(1864年)になると伊勢桑名藩主 松平定敬(まつだいらさだあき)が京都所司代に任命されます。松平定敬は容保の弟です。
容保と定敬の父は美濃高須藩10代藩主 松平義建(まつだいらよしたつ)です。
高須藩は御三家尾張藩の支藩で宗家に跡継ぎがいないときは養子を送り宗家を継げる家柄でした。
義建の子のうち次男の慶勝が尾張藩14代藩主、五男の茂栄が尾張藩15代藩主、一橋家10代当主、七男の容保が会津藩9代藩主、八男の定敬が桑名藩4代藩主(松平家)となり、この四人は高須四兄弟と呼ばれ幕末の政局で重要な役割を担いました。
朝廷から禁裏御守衛総督(きんりごしゅえいそうとく)に任命された一橋慶喜と京都守護職 松平容保、京都所司代 松平定敬の三者が京の政局、治安を担当したことから一会桑政権(いちかいそうせいけん)とも呼ばれます。