攘夷派の挙兵!天誅組の変、生野の変
文久3年(1863年)3月 14代将軍徳川家茂が3千の兵を率いて上洛を果たします。
孝明天皇の周囲は攘夷派の公家で固められており、朝廷の強い圧力に屈した家茂は5月10日を攘夷実行の日と奏上したのです。
むやみに攻撃をしないよう諸藩には通達を出していたため、5月10日に攘夷を実行したのは長州藩のみでした。
期日が到来しても行動を起こさない幕府に対し攘夷派は孝明天皇の大和行幸を計画します。
大和行幸は孝明天皇が大和に赴き初代天皇である神武天皇領を参拝して攘夷を祈願するというものですが、攘夷派は天皇みずから政治を行う親政へのきっかけにしようと画策していたのです。
長州藩攘夷派と真木和泉(まきいずみ)は三条実美(さんじょうさねとみ)ら攘夷派の公家に働きかけ8月13日に「行幸の詔」を得ることに成功します。
攘夷派の公家中山忠光(なかやまただみつ)と吉村寅太郎(よしむらとらたろう)は大和行幸の先駆けとなるべく土佐藩や久留米藩の脱藩浪士たちと天誅組(てんちゅうぐみ)を結成して大和国に向かいます。
*吉村寅太郎
幕府の天領である五条の代官所を襲撃した吉村たちは代官を殺害すると五条の朝廷領化を宣言し周辺の農民には年貢の半減を通達しました。
天誅組の呼びかけに応じた十津川郷士が加わりその規模は1千人に達したとされています。
そのころ京では攘夷過激派の突出に危機感を持った薩摩藩、会津藩、公武合体派の公家が連携して八月十八日の政変を起こします。
この政変により大和行幸は延期され、攘夷派の公家7人と長州藩が京から追放されました。
天誅組の元にも政変の一報が届くと吉村たちは高取城を攻撃しますが高取藩の反撃にあい退却します。
幕府の追討軍と戦いながら大坂への脱出を試みますが十津川郷士が離反したことで天誅組は瓦解!
*中山忠光
中山忠光は脱出に成功したものの吉村寅太郎、藤本鉄石、松本奎堂など主要なメンバーは討死や自刃を遂げました。
天誅組に呼応するかたちで但馬国生野でも攘夷派の挙兵が起こります。挙兵の中心人物が福岡藩士平野国臣(ひらのくにおみ)です。
平野は西郷吉之助(隆盛)と親交があり、安政の大獄で西郷と月照が追われると二人を薩摩に逃がすために手助けをしています。錦江湾に入水した西郷を引きあげたのも平野です。
*平野国臣
天誅組が挙兵すると平野は但馬国の攘夷派北垣晋太郎(きたがきしんたろう)、長州藩攘夷派河上弥市(かわかみやいち)らと連携をとり挙兵を画策します。
八月十八日の政変で京を追われた7人の公家のひとり澤宣嘉(さわのぶよし)を総帥に迎えると兵を挙げ生野の代官所を占領したのです。
寡兵の呼びかけに応じた農民兵およそ2千が加わり一大勢力となりますが、すでに天誅組を鎮圧していた幕府は追討軍を編成して生野に派遣します。
幕府の素早い対応に焦った占領軍は分裂!澤や農民兵が離脱したことで内部崩壊したのです。河上は自刃し平野は捕縛されます。北垣は脱出に成功して鳥取藩攘夷派に匿われました。
捕らえられた平野は京へ送られ六角牢に投獄されますが、禁門の変の際に幕府の役人によって斬首されました。
北垣は幕末の動乱を生き抜き京都府知事、北海道庁長官などを歴任しました。澤は明治政府の高官となり外務卿などを歴任しますが明治6年(1873年)に病没しました。