西郷隆盛と禁門の変「軍(いくさ)は難儀で二度としたくない!」
*禁門の変で自刃した長州藩士 来島又兵衛
京の政局が混迷する中、西郷吉之助(隆盛)に赦免の命が下ります。
西郷の親友 吉井友実(よしいともざね)と弟の西郷信吾(さいごうしんご)を乗せた藩船「胡蝶丸(こちょうまる)」が沖永良部島に到着したのは元治元年(1864年)2月21日 のことです。
「胡蝶丸」は薩英戦争後に薩摩藩がイギリスから7万5千ドルで購入した蒸気船です。
22日に伊延港を出港した西郷は23日奄美大島に立ち寄り愛加那、菊次郎、菊草を訪ねます。
西郷はよほどうれしかったのか、土持政照(つちもちまさてる)に宛てた手紙の中で「龍郷に安着し皆々大喜びのことで蘇生の思いがする仕合せご遠察ください。四日の滞在でしたが、愚妻の喜び情義においてこれまたご憐察ください」と記しています。
西郷の来島に愛加那も喜び幸せな一時を過ごした様子が伺えます。
西郷は奄美大島に3泊しますがこれが愛加那との今生の別れになりました。菊次郎と菊草はのちに薩摩の西郷家に引き取られますが、島妻であった愛加那は奄美大島に残ったため以後西郷と会うことはありませんでした。
26日に奄美大島を離れた西郷は喜界島に寄港して村田新八を乗船させると28日に薩摩に帰国したのです。
座敷牢で生活をしていた西郷の足腰は相当弱っていたようで、山川港から自宅まで徒歩で移動することができず駕籠を使用しています。
翌日に斉彬の墓参りを済ませると、3月4日には京に向けて旅立ちました。
14日に上洛した西郷は二本松薩摩藩邸に入ると島津久光に拝謁します。
前回の失敗に懲りたのか西郷は従順な態度に終始したため何事もなく謁見は終了し19日には軍賦役に任命されました。
大久保一蔵(利通)は手紙の中で「大島(西郷)は軍賦役を仰せ付けられ、此の節は議論もおとなしく、少しも懸念これなく、安心仕り候」と記しています。
入水事件で死んだことになっている西郷は大島吉之助の変名を使用していたため文中でも大島と記しています。
西郷の性格を知っている周囲の人たちは失言を心配していたようですが、西郷はその後も久光の前では言葉を選び慎重な態度を崩しませんでした。
西郷が藩政に復帰した直後の政治状況は久光が主導した参預会議が失敗に終わり、久光と大久保は5月に薩摩に帰国しています。
薩摩藩は幕府や一橋慶喜と距離を置くようになり、政治的には攘夷派、公武合体派どちらにも属さず尊王を第一に禁裏の警護に専念する方針をとります。
一方、八月十八日の政変で追放された長州藩は巻き返しをはかるべく密かに攘夷派志士たちを上洛させていました。
京に潜伏していた攘夷過激派は御所への放火、孝明天皇の拉致、中川宮の幽閉、一橋慶喜、松平容保、松平定敬の殺害を画策していたとされ、この情報を得た新選組が池田屋を襲撃!集まっていた攘夷派志士たちを殺傷、捕縛しました(池田屋事件)
池田屋事件の一報を受けた西郷は大久保に手紙を送り「今回の騒動の成り行きはどのようになるのか、長州もこのままということは考えにくく、大破するか、または大挙して発つかでしょう。」と述べています。
池田屋事件で藩士を殺害された長州藩では報復の声が高まると、攘夷派が藩政を掌握していたこともあり挙兵を決断しました。
福原越後(ふくはらえちご)、益田右衛門介(ますだうえもんのすけ)、国司信濃(くにししなの)の三家老、来島又兵衛(きじままたべえ)、久坂玄瑞(くさかげんずい)らに率いられた軍勢が京に向け進軍を開始します。
福原越後は伏見の長州藩邸、国司信濃は山崎、来島又兵衛は天龍寺、益田右衛門介と久坂玄瑞は天王山にそれぞれ陣を構えると、朝廷と幕府に藩主父子と七卿の復権を願いでたのです。
この動きに対し禁裏御守衛総督 一橋慶喜は諸藩に出兵を命じるとともに長州藩には退去を勧告します。
出兵を命じられた薩摩藩では西郷が対応にあたりますが、一橋慶喜や会津藩と距離をとろうとしていた西郷は出兵を拒否します。
大久保に宛てた手紙では「この度の戦争はまったく長州と会津の私闘ですから、大義名分のない戦いに兵を動かすようなことはせず、禁裏の守護に専念するつもりですので、そのようにお含みください。」と記し、今回の事態は長州と会津の問題であり薩摩は関与せず禁裏の警護に徹すると述べています。
このように当初は出兵に消極的だった西郷ですが、長州が軍を動かし事態が緊迫すると、薩摩からの援兵が到着したこともありしだいに参戦に傾きます。
朝廷から諸藩に長州討伐の勅命が発せられると、事態の好転は望めないと判断した長州軍が市中に向けていっせいに進軍を開始したことで各方面で戦端が開かれました。
長州軍は国司隊が中立売門(なかだちうりもん)、来島隊が蛤門(はまぐりもん)、児玉隊が下立売門(しもだちうりもん)、益田隊が堺町門(さかいまちもん)を攻めます。
中でも激戦が展開されたのが蛤門でした。長州の来島隊と会津藩との間で一進一退の攻防が繰り広げられますが、中立売門の国司隊が筑前藩を破り禁裏に侵入すると、さらに来島隊に加勢したため会津藩は劣勢に立たされます。
窮地に立たされた会津を救ったのが薩摩藩でした。乾門(いぬいもん)を守っていた薩摩藩は長州藩の禁裏侵入を防ぐため兵を動かし会津に加勢します。
薩摩藩兵に狙撃され致命傷を負った来島又兵衛は自刃!指揮官を失った蛤門の長州軍が退却します。各方面でも長州軍は敗れわずか一日の戦いで決着がついたのです。
薩摩軍の指揮をとった西郷は戦闘中に流れ弾が足をかすめ軽傷を負います。
禁門の変は西郷にとって初めての実戦であり、戦いの直後に大久保に宛てた手紙には「攻め登ってきた長州勢を薩摩藩兵が打ち破り、鷹司邸に逃げ込んだ敵に砲撃をあびせ火攻めにして退却させた」という内容が記されています。戦いに勝利した高揚感が伝わる内容です。
しかし、翌年に土持正照に送った手紙では「昨年の夏には京都で合戦があり、足に少々鉄砲疵を被りましたが、軽傷で大事には至りませんでした。ご存知の通り軍(いくさ)好きのことではありますが、現実の事ととなると実に難儀なもので、二度は望みたくないものです」と述べています。
「武士である以上戦いから逃れることはできないが、他に方法があるならば戦争はできる限りやらないほうがよい」ということでしょうか。
西郷が戦好きかはともかく禁門の変の活躍により薩摩藩はその軍事力の高さを天下に知らしめました。以後薩摩藩は軍事力を背景に京の政局をリードしていくのです。