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第二次長州征伐と徳川家茂の死 倒幕に傾く薩摩藩

西郷どんがもっと楽しくなる!小ネタ・豆知識

大島口の戦い 第二次長州征伐(四境戦争)*第二次長州征伐(四境戦争) 大島口の戦い

慶応2年(1866年)1月21日薩摩藩と長州藩の間で同盟が結ばれました。(薩長同盟

幕府は「藩領10万石の削減」と「毛利父子の隠居、蟄居」を第一次長州征伐の最終処分案とします。

1月23日 幕府の朝廷工作が功を奏し長州処分案に勅許がくだされます。

薩長の密約を知らない幕府は小笠原長行(おがさわらながみち)を派遣して長州藩に処分を言い渡すと、諸藩に対しては「長州が処分に従わないときは再び征長を行う」ことを通達したのです。

長州藩はのらりくらりと回答を引き延ばしながら、幕府との戦いに備え軍備増強を急ピッチで進めます。

一方、薩摩藩では薩長同盟締結直後に起こった寺田屋事件で負傷した坂本龍馬を保護し薩摩に匿う準備を進めていました。

1月23日宿泊していた寺田屋を伏見奉行の捕り方に囲まれた坂本龍馬と三吉慎蔵(みよししんぞう)は、拳銃や槍で応戦しながら脱出し薩摩藩邸で保護されます。

捕り方を殺傷した坂本は幕府に追われる身となったため、西郷は薩摩で匿うことを決め、藩の蒸汽船に坂本、お龍、三吉、中岡を乗せ薩摩に向かいました。

3月10日に薩摩に到着した坂本とお龍(三吉と中岡は下関で下船)はその後3か月ほど薩摩に滞在することになります。

帰国した西郷、小松らは幕府との対決に備え藩政改革に着手し、西郷の代わりに大久保利通が朝廷、幕府の対応にあたりました。

4月14日大坂城の老中板倉勝静(いたくらかつきよ)に面会した大久保は、建白書を提出し第二次長州征伐の非を説きます。

謝罪している長州を追い込み争乱を起こそうとしている幕府を批判した大久保は、大義のない戦争への出兵を拒否したのです。

薩摩藩に続き広島藩、肥前藩、宇和島藩も出兵を拒否しました。

この知らせを受けた西郷は大久保宛ての手紙(5月29日付)に「閣老(老中板倉勝静)へ建白書をご持参されご討論されたこと、実に両殿様(茂久と久光)は御満足され、大久保よくやったとよろこんでいます。ご建白の書面と言い、ご議論と言い、いずれもすばらしく、世の中の注目を集めることになります。後世の歴史に残ること間違いありません」と記し、大久保を称賛しました。

このように、幕府の出兵命令(軍役)を拒否した薩摩藩は、倒幕の決意を固め薩長同盟の約定に基づき長州藩が有利になるよう朝廷工作を行うことになります。

5月9日幕府は長州藩に対し5月29日までに処分を受け入れなければ6月5日に開戦する旨を通達します。

戦闘態勢を整えていた長州藩はこの通達を無視したため第二次長州征伐(四境戦争)の戦端が開かれたのです。

6月7日周防大島を幕府艦隊が砲撃したことで開戦!13日には芸州口、16日には石州口、17日には小倉口で戦いが始まります。

幕府軍は10万を超える軍勢で攻めますが兵の士気は低く武器も旧式でした。それに対し長州藩兵の士気は高く、薩摩を介して手に入れた新式銃は威力や命中度の点で幕軍を圧倒していました。

長州藩が戦いを有利にすすめる中、幕府の総大将である将軍家茂が7月20日に突如病没します。

幕閣と一橋慶喜は将軍の死を隠し戦いの続行をはかりますが、小倉口で幕府軍が敗れたことを知ると休戦へと動き出しました。

幕府は勝海舟を京に呼び寄せ長州藩との休戦交渉役を命じます。

幕府は8月20日に家茂の死と徳川宗家の家督を一橋慶喜が継ぐことを公表します。幕府側の働きかけもあり、翌日になると朝廷から第二次長州征伐休戦の勅命がくだされました。

勝は広島に乗り込み長州藩の代表 広沢兵助(真臣)、井上聞多(馨)らと交渉を行い9月2日に休戦協定が締結します。

これにより征長軍は撤兵、解散となりました。

将軍の死という特別な事情があったものの、10万を超える大軍を擁しながら長州一藩を攻め落とすことができなかった幕府の権威はさらに失墜し、倒幕への流れを加速させる結果となったのです。