薩摩藩邸焼き討ち事件と江戸無血開城「いろいろ難しい議論もありましょうが、私が一身にかけてお引き受けします」
*結城素明画「江戸開城談判」西郷隆盛と勝海舟
王政復古の大号令とその後に開かれた小御所会議において徳川家の辞官納地、京都守護職と京都所司代の廃止などが決定しました。
このとき徳川慶喜たちは何をしていたのでしょうか?
徳川慶喜は薩摩藩を中心とする討幕派のクーデター計画を事前に察知していました。通説ではクーデターの3日前に松平慶永(春嶽)を介して情報が伝わったとされています。
情報を得た慶喜は対抗策を講じることはなく、むしろクーデターが滞りなく実行されるよう協力したふしさえうかがえます。
12月8日夕刻から開かれた朝議には病気を理由に欠席しています。また、5藩の藩兵が御所の門を固めたときも会津藩、桑名藩の兵を二条城に引かせています。
西郷と大久保にとって会津と桑名が反撃せずに兵を引いたことは予想外でした。
薩摩藩重役蓑田伝兵衛(みのだでんべえ)宛ての手紙で西郷は「薩兵をもって門を固めたところ、会津、桑名の兵も仰天したようでいささかも動くことはなく、兵をまとめ二条城に引き込んだ」と報告しています。
会津、桑名の兵が反撃すれば5藩の兵でこれを叩き、新政府と旧幕府との戦争に持ち込むことが可能だっただけに、両藩兵が引いたことで思惑が外れてしまったようです。
12月10日議定の徳川慶勝、松平慶永が二条城の徳川慶喜を訪ね、小御所会議の詳細と徳川家の辞官納地を伝えます。
辞官については異論のない慶喜ですが、納地に関しては幕臣らの激しい抵抗もあり返答を保留しました。
小御所会議の詳細を知った幕臣や会津、桑名の兵は、クーデターを主導した薩摩藩に対する憎しみを声高に叫びますが、慶喜は恭順の意を示すため京を離れ大坂城に移る決断を下します。
このように徳川慶喜は新政府との武力衝突がおきないよう細心の注意を払いながら事態の推移を見つめていました。
新政権は政治経験のない親王や公家と雄藩諸侯・家臣で構成された寄せ集めであり、政策をめぐり内部対立を起こす可能性が高いと考えていた慶喜は、巻き返すチャンスは来るとの思惑から、新政府の樹立を妨害するようなことはしなかったと推測されます。
徳川家の所領を財源にあてようと考えていた新政府首脳に対し、同じ政府内から異論がでます。
徳川家の納地が現実になれば、やがて自分たちも同じように納地を迫られるのでは?との不安から「財源の負担を徳川家だけにおしつけるのは公平ではない」と反発したのです。
徳川家救済の動きが広がる中、西郷、大久保、岩倉たち討幕派は譲歩せざるを得なくなり、徳川家の納地は棚上げ、新政府の財源は諸藩が石高に応じて負担することになりました。
さらに、徳川慶喜が新たに議定に任命され新政府に加わることが内定します。
当初の目論見とは違う方向に進み始めた新政府に対し、西郷と大久保は焦りを感じていましたが、これといった打開策がない中、江戸から朗報がもたらされます。
12月25日江戸の薩摩藩邸が庄内藩によって焼き討ちされる事件が起こったのです(薩摩藩邸焼き討ち事件)
*豊洲国輝画「薩州屋敷焼撃之図」
事の発端は西郷が幕府を挑発するため10月の段階で薩摩藩士益満休之助(ますみつきゅうのすけ)と伊牟田尚平(いむたしょうへい)、攘夷派志士相楽総三(さがらそうぞう)に江戸の攪乱を命じたことにあります。
益満たちは攘夷派浪士150~500名を集め薩摩藩邸を拠点に江戸の町で略奪や暴行を行います。商家を襲い金品を強奪して活動の軍資金にしたのです。
しかし、大政奉還によって徳川慶喜が政権を返上したため、討幕の密勅による幕府討伐計画は中止されます。
西郷は攪乱作戦の中止を命じますが、数百人規模に達した浪士たちは益満らの命令を聞かず略奪行為を繰り返しました。
探索により浪士たちの拠点が三田薩摩藩邸だと判明すると、幕府は庄内藩、鯖江藩、上山藩、岩槻藩の4藩に浪士の捕縛を命じます。
江戸市中の警護を担当していた庄内藩を中心とする約1千の兵が三田薩摩藩邸を取り囲み浪士の引き渡しを要求しますが、薩摩藩がこれに応じなかったため戦闘が開始されました。
藩邸内には非戦闘員も含めて200名ほどが居たとされ、数時間の戦いののち藩邸は炎上しました。
相楽総三と伊牟田尚平は脱出に成功しますが、益満休之助は捕らえられ、その他100名を超える浪士が捕縛されました。
*三田薩摩藩邸跡の石碑
12月末事件の一報が届くと、西郷は蓑田伝兵衛に手紙を送り「事件の知らせを受け大いに驚愕しました。暴動は起こさぬよう命じていたのになぜこのようなことになったのか訳が分からず残念千万です」と感想を述べています。
手紙の内容がすべて真実かはわかりませんが、この事件が西郷と大久保の窮地を救ったのは確かです。
薩摩藩邸焼き討ちの詳細が大坂城に伝わると、薩摩憎しの念をたぎらせた旧幕軍の士気は高揚します。
新政府軍との戦いを決意した徳川慶喜は、薩摩藩の罪状を列挙した「討薩の表」を作成すると、会津、桑名の兵を先陣に旧幕府軍1万5千が京に向け進軍を開始したのです。
これにより徳川慶喜の議定内定は取り消され、旧幕府軍を迎え撃つべく薩長土の兵およそ5千が編成されます。
慶応4年1月3日戊辰戦争の幕開けとなる鳥羽・伏見の戦いが勃発しました。
数で劣る新政府軍ですが、最新の銃器と統制の取れた兵士の働きにより旧幕府軍と互角の戦いを展開します。
新政府が用意した錦の御旗が戦場に翻ると、朝敵となることを恐れた旧幕府軍の士気は低下!
徳川慶喜は松平容保、松平定敬、板倉勝静を伴い6日夜密かに大坂城を脱出すると開陽丸で江戸に逃げ帰ったのです。
江戸に戻った徳川慶喜は新政府に恭順の意を示しますが、新政府は慶喜の追討を布告すると、東征軍を編成して江戸に向け進軍を開始しました。
西郷は東征大総督府下参謀に任命され東征軍の実質的なトップとなります。
東征軍が駿府に到着すると、旧幕臣の山岡鉄太郎(鉄舟)が薩摩藩邸焼き討ち事件で捕縛された益満休之助を伴い東征軍の本部を訪れます。
山岡が使者に選ばれた経緯ですが、徳川慶喜は新政府との交渉役に勝海舟を任命し全権を委ねました。慶喜の護衛をしていた山岡は自ら志願して使者となることを勝に談判します。
これを認めた勝が山岡に手紙を託し西郷の元に派遣したのです。
山岡は慶喜が恭順の意を示し寛永寺で謹慎していることを説明し寛大な処置を求めます。
このとき西郷は以下の条件を示したとされてます。
・徳川慶喜を岡山藩に預けること
・江戸城を明け渡すこと
・江戸城内の家臣を向島へ移動させること
・兵器を差し出すこと
・軍艦を差し出すこと
・交戦派を処罰すること
・従わない者は官軍が鎮圧すること
このとき山岡は「主君を他藩に預けることだけは承服しかねる」と譲らなかったため、この条件についてはいったん保留となります。
3月12日江戸に到着した西郷は東征軍の兵士を要所に配置して江戸の町を囲みます。攻撃態勢を整えた西郷は3月15日を総攻撃の日と定めます。
勝海舟が西郷の元を訪れたのは13日のことでした。高輪の薩摩藩邸で会談を行った両者は翌日に本格的な交渉に入ります。
*江戸無血開城 西郷と勝の会見の地 石碑
山岡との事前交渉で保留となっていた慶喜の岡山藩へのお預けは、水戸での謹慎と決まり大筋で交渉がまとまります。
このとき西郷は「いろいろ難しい議論もありましょうが、私が一身にかけてお引き受けします」と語ったそうです。
江戸総攻撃を中止にした西郷は、政府の承認をとるため15日に江戸を発ち20日に入京すると、徳川家への処分案を朝議にかけ了承を得ることに成功します。
再び江戸にもどった西郷は、4月4日江戸城に乗り込み、11日明け渡しが行われました。こうして江戸の町は戦火を免れることができました。
彰義隊の抵抗(上野戦争5月15日)があり、まったく血が流れなかった訳ではありませんが、西郷と勝の尽力により江戸庶民の生命と財産が守られたことは事実です。
「江戸無血開城」からおよそ4か月後、江戸は東京にかわり新しい時代を迎えることになりました。
年代 | 薩摩藩関連 | 主要な出来事 |
慶応3年(1867年) 10月 |
薩長芸出兵協定を締結 | 土佐藩が老中板倉勝静に「大政奉還建白書」を提出 |
薩摩藩に「討幕の密勅」が下る | 長州藩に「藩主官位復旧の宣旨」が下る | |
長州藩に「討幕の密勅」が下る | ||
徳川慶喜「大政奉還」を朝廷に上奏 | ||
西郷、大久保、小松の三者が京を発つ | 朝廷が「大政奉還」を受理 | |
西郷、大久保、小松が薩摩に帰国 | ||
藩主茂久の出兵上洛が決定 | ||
11月 | 大久保利通が土佐に向け出発 | |
茂久と西郷が藩兵を引き連れ薩摩から出発 | ||
大久保利通入京 | 近江屋事件 坂本龍馬と中岡慎太郎が襲撃を受ける | |
茂久と西郷が入京 | 油小路事件 伊藤甲子太郎暗殺 | |
12月 | 薩摩、土佐、広島、尾張、越前兵によるクーデター | 王政復古の大号令 |
西郷、大久保、岩下参与に就任 | 小御所会議 | |
徳川慶喜二条城から大坂城へ移る | ||
江戸薩摩藩邸焼き討ち事件 | ||
五卿が京に戻る | ||
慶応4年(1868年) 1月 |
徳川慶喜「討薩の表」を作成 | |
薩摩、長州、土佐が幕府軍を迎え撃つ | 鳥羽・伏見の戦い | |
徳川慶喜 大坂城を脱出 | ||
徳川慶喜江戸城に戻る | ||
2月 | 西郷が東征大総督府下参謀に就任 | 徳川慶喜江戸城から寛永寺に移り謹慎 |
3月 | 駿府で西郷と山岡が会談 | |
高輪の薩摩藩邸で西郷と勝海舟が会談 | 五箇条の御誓文 | |
4月 | 西郷が江戸城に入る | |
江戸無血開城 | ||
閏4月 | 田安亀之助が徳川宗家を相続 |