夫である新島襄が亡くなったあと八重が積極的に取り組んだものが3つあるといわれています。社会奉仕活動(篤志看護婦)と茶道、そしてもうひとつが会津の汚名返上です。 戊辰戦争で会津藩
*茶道に傾倒していた晩年の八重 新島襄の死後、八重は社会奉仕活動(日本赤十字社の篤志看護婦)に積極的に参加をします。その一方で、茶道にも強い関心を示し、裏千家十三代 圓能斎鉄
*篤志看護婦(とくしかんごふ)時代の新島八重 1890年1月23日新島襄は帰らぬ人となります。同志社にとって新島襄の存在はとても大きく混乱することは必至でした。同志社は発起人
新島襄はその生涯において二度遺言(遺書)を書いています。一度目は1884年4月からおよそ一年半にわたる欧米諸国への視察旅行中でした。 大学設立のため視察の旅に出た新島襄は、18
生徒数わずか8人でスタートした新島襄の同志社英学校は、熊本バンドの転入や八重、覚馬の献身的な協力もあり生徒数は徐々に増えていきます。 1883年には、横井時雄、中村栄助、松山高
東京への遷都により、さびれてしまった京都の復興を任された槇村正直と山本覚馬は、殖産興業を推進して京の町の近代化にとりかかります。 小野組転籍事件で投獄された槇村を救うため、東京
*徳富蘇峰(徳富猪一郎) 新島襄は妻である八重を対等に扱い、ひとりの人間として尊重していました。人力車に乗るときは、八重の手をとりレディーファーストで先に乗せました。八重を呼
新島襄が設立した同志社英学校は、開校当時生徒数はわずか8名でしたが、その後熊本バンドの転入などもあり生徒数は増加します。それでも定員割れが生じる厳しい状態でした。 不足している
熊本バンド(くまもとばんど)は、廃校となった熊本洋学校から同志社英学校に転入してきた生徒の総称です。 熊本洋学校は、1871年熊本で設立されました。熊本県(白川県)で勢力を持っ
アメリカで10年間学んだ新島襄は日本への帰国を決心します。襄は日本での神学校設立を思い描いていました。しかし、そのためには多額の資金が必要になります。襄は資金を援助してもらうべ
山本覚馬が京都府顧問として得ていた給料は月30円(のちに45円)です。明治初期の1円が現在の価値でどのくらいになるのかは比較する対象によってかわってきます。 日本人の主食である
*槇村正直(まきむらまさなお) 槇村正直(まきむらまさなお)は、長州藩下士羽仁家の二男として1834年に誕生します。優秀であったため槇村家の養子となり、長州藩祐筆を務めたのち
京都の町は、禁門の変、鳥羽・伏見の戦いで戦場となり、さらに明治政府による東京遷都によって活気を失っていました。京都の復興は新政府にとっても早急に取り組まねばならない課題であり、
一ヶ月の籠城戦を戦った会津藩は、ついに新政府に降伏をします。1868年9月23日には鶴ヶ城を明け渡し、藩主松平喜徳(まつだいらのぶのり)と前藩主松平容保(まつだいらかたもり)は
*新島八重と再会した日向ユキ(ひなたゆき) 日向ユキは父日向左衛門と母日向ちかの次女として1851年に誕生しました。父左衛門は会津藩御旗奉行(おはたぶぎょう)の職につく400
新政府軍が若松城下に侵攻した8月23日、会津藩家老西郷頼母邸において、西郷一族二十一名が集団自決をします。この日、西郷邸には頼母の家族の他に、支族や親戚の者が居合わせていました
8月23日に若松城下に侵攻した新政府軍に対し、会津藩では城内に避難し遅れた藩士の家族が多数自害します。入城できなった女性たちの中で、中野竹子、優子姉妹とその母こう子、神保雪子、
1868年洋式軍制への改革を行った会津藩ではあらたに玄武(50歳以上)、青龍(36歳から49歳)、朱雀(18歳から35歳)、白虎(16歳から17歳)の4隊を編制します。各隊は身
7月29日に二本松城が落城!奥州街道の守備についていた仙台藩を撤退させたことで、会津攻撃のルートを確保した新政府では、会津を攻めるか仙台、米沢を攻めるかで意見が分かれます。 軍
西郷隆盛、勝海舟の会談により江戸城は開城されますが、戦わずして降伏したことに納得のできない一部の者は、歩兵奉行 大鳥圭介(おおとりけいすけ)を総督に2000名からなる軍団を編成
福島県の南部に位置する白河は昔から奥羽の玄関口とされてきました。江戸時代は徳川家の親藩、譜代である、松平家、本多家、阿部家などが治めていましたが、戊辰戦争時は天領となり二本松藩
鳥羽・伏見の戦いに敗れた会津藩は、故郷会津に帰国します。藩主松平容保は家督を養子である喜徳(のぶのり)に譲り新政府に対して恭順の意を示しますが、藩内には強硬派が多数いたため藩論
庄内藩は、徳川四天王 酒井忠次の孫酒井忠勝(さかいただかつ)を藩祖とします。最上騒動により出羽山形藩57万石が改易されると、信濃松代藩10万石の藩主であった酒井忠勝が3万800
佐竹義宣(さたけよしのぶ)を藩祖とする久保田藩(秋田藩)佐竹氏は関ヶ原の戦い以前は常陸国を領有する54万石の戦国大名でした。 佐竹氏は平安時代から続く名門で、八幡太郎と呼ばれた
上杉景勝を藩祖とする米沢藩上杉氏は、豊臣秀吉の時代に120万石を誇る領地を治めていましたが、関ヶ原の戦いで西軍についたため戦後30万石に減封されます。 景勝の孫である3代藩主
*越後長岡藩士 河井継之助(かわいつぐのすけ) 会津藩は越後におよそ5万石の領地を所有していました。新政府軍との戦いが避けられない状況になると、戦略上の要地である越後に家老一
*長州藩士 世良修蔵(せらしゅうぞう) 新政府軍は会津討伐のために奥羽鎮撫総督府を設置し、総督に九条道孝(くじょうみちたか)副総督に沢為量(さわためかず)を任命し参謀として醍
東山道(中山道)を進む東山道鎮撫総督府は、途中で本隊と別働隊に分かれます。本隊は伊地知正治が率いてそのまま中山道を進み、板垣退助(乾退助)率いる別働隊は幕府の天領であった甲府を
鳥羽・伏見の戦いで勝利した新政府軍は、徳川家、会津藩、庄内藩討伐のため東征大総督府、北陸道鎮撫総督府、東山道鎮撫総督府、東海道鎮撫総督府、、奥羽鎮撫総督府を設置して進軍を開始し
鳥羽・伏見の戦いに勝利した薩長を中心とする新政府軍は、徳川家(徳川慶喜)を討伐するため北陸道、東山道(中山道)、東海道の3つのルートから江戸に攻め上ることを決定します。 北陸道
江戸城に逃げ帰った将軍徳川慶喜は戦意を喪失し、自らの命と徳川家の存続をはかるため薩長軍に対して恭順の意を示します。 薩摩出身の天璋院篤姫(13代将軍徳川家定正室)と皇族出身の静
1868年1月3日に戦端が開かれた鳥羽・伏見の戦いは幕府軍の惨敗に終わりました。薩長両軍よりも3倍の兵力を擁し本来なら負けるはずのない戦での敗戦に幕府は衝撃を受けます。薩長が保
第二次長州征伐の失敗により権威が失墜した幕府では15代将軍に慶喜が就任し巻き返しを画策します。一方、薩摩と長州では徳川政権を武力で倒す倒幕への流れが加速し朝廷に働きかけ倒幕の密
禁門の変(蛤御門の変)で攘夷派の公家と長州藩を京から追放した幕府は第一次長州征伐を慣行します。容保の兄である尾張藩主徳川慶勝(とくがわよしかつ)を総督に任命し36藩総勢15万の
*松平容保(まつだいらかたもり) 松平容保(まつだいらかたもり)は、徳川御三家筆頭尾張藩の分家である美濃高須10代藩主松平義建(まつだいらよしたつ)の7男として1835年に誕
会津藩士(上士)の子弟は6歳から9歳の間、「什」と呼ばれるグループに所属して目上の人に対する礼儀と集団行動を学びます。10歳になると藩校日新館(にっしんかん)に入り武士として必
会津藩の軍制は1788年家老の田中玄宰(たなかはるなか)によって長沼流が採用されました。先鋒(せんぽう)、左右翼(さゆうよく)、中軍(ちゅうぐん)、殿(しんがり)の4つの陣で編
保科正之(ほしなまさゆき)は1611年2代将軍徳川秀忠の四男として誕生します。幼名は幸松。 正室である江の許可を得ることなく子をつくってしまった秀忠は、江に気をつかい生まれたば
会津は鎌倉時代に蘆名氏が領有し20代にわたりこの地を治めてきました。戦国時代に蘆名義広が磨上原の戦い(すりあげはらのたたかい)で伊達氏に敗北し滅亡します。その後、短い間に伊達氏
京都守護職は、京の治安を維持するために1860年に新設された機関です。 江戸時代京都の治安は京都所司代が担当していました。京都所司代は治安維持だけでなく西国諸藩を監視する役目も