京都守護職(きょうとしゅごしょく)
京都守護職は、京の治安を維持するために1860年に新設された機関です。
江戸時代京都の治安は京都所司代が担当していました。京都所司代は治安維持だけでなく西国諸藩を監視する役目も担っていたため、徳川体制が安定していなかった江戸時代初期はとても重要な機関でした。
板倉勝重や板倉重宗など有能な人物がその任にあたってきましたが、時代が下るとともに形骸化していき実行力のない機関となっていました。
幕末になると攘夷派志士たちによる暗殺や乱暴狼藉が横行し、京の治安は大いに乱れます。もはや京都所司代では治めきれなくなると、幕府は新たに京都守護職を設置して会津藩主松平容保をその任に当たらせます。京都所司代は京都守護職の下に置かれることになります。
京都守護職を任命された松平容保は何度も辞退しますが、政治総裁職である松平春嶽(松平慶永)は会津藩祖保科正之と家訓第1条を持ち出し粘り強く説得を続けます。藩祖の名と家訓をだされたことでもはや断りきれない状況になった容保はこれを受けてしまうのです。
京都守護職受諾を聞いた会津藩では国家老 西郷頼母(さいごうたのも)と田中土佐(たなかとさ)が江戸へ急行し「火中の栗をひろうようなもの!」と容保を諌めますが、「徳川宗家に絶対忠誠を誓う会津藩としてはこれを拒むことはできない!」「もう決定したことである!」という容保の強い意思をくみとりこれに従うのです。
京都守護職となった会津藩では1000人を超える藩士を京に滞在させることになり、その莫大な費用を捻出するため会津領民から過酷な税を徴収します。重い税は領民を疲弊させ藩に対して恨みを抱く者を増やす結果となったのです。