保科正之(ほしなまさゆき)と家訓15ヶ条
保科正之(ほしなまさゆき)は1611年2代将軍徳川秀忠の四男として誕生します。幼名は幸松。
正室である江の許可を得ることなく子をつくってしまった秀忠は、江に気をつかい生まれたばかりの幸松を武田信玄の娘である見性院に預けることにします。
見性院は幼い幸松を養育しその後ろ盾として高遠藩主保科正光に幸松を託します。幸松は成人すると正之と名を改め養父である正光から高遠3万石を譲り受けるのです。
江の死後、18歳のときに初めて父秀忠に面会を許されます。実直な性格の正之は兄である家光や忠長にも可愛がられたといわれています。
家光が3代将軍になると正之は山形20万石に取り立てられ、さらに7年後には東北の要である会津を任され23万石を与えられるのです。
1651年に家光が死去すると遺言により正之は4代将軍家綱の後見役となります。家光から受けた恩に報いるため全力で徳川宗家を支える正之は、1668年15ヶ条からなる家訓(かきん)を作成します。
この家訓は会津藩の憲法とも言えるもので、歴代の藩主と藩士が絶対守らなくてはならない掟でもあります。
その第1条には「大君の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例をもって自ら処るべからず。若し二心を懐かば、則ち、我が子孫にあらず 面々決して従うべからず」とあり、徳川宗家に忠節をつくすこと、他藩の考えや行動を判断材料にしてはいけない、徳川宗家に二心抱く者は我が子孫ではなく家臣も従う必要はないという内容が掲げられています。
正之の徳川宗家に対する思いの強さが伝ってくる内容です。しかし、この第1条がのちに会津藩を悲劇に導くことになろうとはこのときの正之には知る由もありません。
◆家訓15ヶ条
一、大君の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず。若し二心を懐かば、則ち我が子孫に非ず、面々決して従うべからず。
一、武備は怠るべからず。士を選ぶを本とすべし。上下の分を乱すべからず。
一、兄を敬い弟を愛すべし。
一、婦人女子の言、一切聞くべからず。
一、主を重んじ法を畏るべし。
一、家中風義を励むべし。
一、賄を行い媚を求むべからず。
一、面々、依怙贔屓(えこひいき)すべからず。
一、士を選ぶに便辟便侫(べんぺきべんねい)の者を取るべからず。
一、賞罰は家老の外、これに参加すべからず。若し出位の者あらば、これを厳格にすべし。
一、近侍の者をして、人の善悪を告げしむべからず。
一、政事は利害を以って道理を枉ぐべからず。僉議は私意を挟みて人言を拒むべらず。思う所を蔵せず、以てこれを争そうべし。甚だ相争うと雖も我意を介すべからず。
一、法を犯す者は宥すべからず。
一、社倉は民のためこれを置き、永く利せんとするものなり。 歳餓うれば則ち発出してこれをすくうべし。これを他用すべからず。
一、若し志を失い、遊楽を好み、馳奢を致し、土民をしてその所を失わしめば、則ち何の面目あって封印を戴き、土地を領せんや。必ず上表蟄居すべし。
右十五件の旨 堅くこれを相守り以往もって同職の者に申し伝うべきものなり