会津藩軍制
会津藩の軍制は1788年家老の田中玄宰(たなかはるなか)によって長沼流が採用されました。先鋒(せんぽう)、左右翼(さゆうよく)、中軍(ちゅうぐん)、殿(しんがり)の4つの陣で編制され先鋒、左右翼、殿は陣将隊と番頭隊で構成されます。中軍は藩主の本陣が置かれました。
長沼流は弓、槍、刀、火縄銃を用いた集団戦法で当時としては最先端の軍制でした。時代が進み幕末になると西国諸藩は大砲や小銃を中心にした西洋式軍制に切り替えるのですが、会津藩では大砲、銃などの飛び道具は軽輩(足軽)の戦法であるという考えが根強くあり軍制の洋式化に遅れをとります。
1868年に起きた鳥羽伏見の戦いで惨敗すると、ようやくフランス式の軍制を取入れる改革をおこないました。隊を年齢別に玄武、青龍、朱雀、白虎の4隊に分け、この他に漁師隊や力士隊、農民や町民も兵士として採用したのです。
玄武、青龍、朱雀、白虎の4隊はそれぞれ身分によって士中隊、寄合隊、足軽隊に分けられました。
玄武隊・・・50歳以上
青龍隊・・・36歳から49歳
朱雀隊・・・18歳から35歳
白虎隊・・・16歳から17歳
こうして洋式軍制となった会津藩ですが、肝心の新式銃の入手は困難をきわめ必要な数を揃えることができないまま会津戦争を戦うことになるのです。