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松平容保(まつだいらかたもり)

松平容保(まつだいらかたもり)
*松平容保(まつだいらかたもり)

松平容保(まつだいらかたもり)は、徳川御三家筆頭尾張藩の分家である美濃高須10代藩主松平義建(まつだいらよしたつ)の7男として1835年に誕生します。7歳の時に会津藩8代藩主松平容敬(まつだいらかたたか)の養子となります。


容敬も元は高須藩の出身で会津に養子にきた身でした。容保の父義建と容敬は兄弟なので、容保は叔父の家に養子に入ったのです。容敬は娘 敏姫と容保を結婚させると1852年に亡くなります。


17歳で会津藩9代藩主となった容保は、1860年に起きた大老井伊直弼暗殺事件(桜田門外の変)で、水戸討伐に傾く幕府首脳を説き伏せ水戸藩と彦根藩の間を取り持ち話し合いで決着をつけたのです。


その容保に京都守護職の大命がくだります。容保は何度も固辞しますが、政治総裁職の松平春嶽に説得されこれを受けてしまうのです。京都守護を拝命した会津藩では藩士1000人を上洛させ京の治安維持に努めます。


八月十八日の政変で攘夷派公家と志士を都から追放し、禁門の変(蛤御門の変)では薩摩とともに長州を撃退しますが、その薩摩藩が密かに長州と同盟を結び敵対関係となります。


鳥羽伏見の戦いでは薩長連合軍に敗れ、藩士を置き去りにしたまま軍艦で江戸へ逃げ帰るという大失態を演じてしまうのです。


将軍慶喜は江戸城を出て即座に謹慎します。容保は失意のうちに会津に帰国し新政府軍に嘆願書を提出し隠居する方針を固めますが、会津藩を憎む長州藩はこれを認めず対立姿勢を強めるのです。


あくまで武力で会津を攻め滅ぼそうとする長州藩に対して、会津藩も東北諸藩と奥羽越列藩同盟を結び新政府軍と戦闘を行います。しかし、最新の武器を揃えた新政府軍は強く、東北諸藩は次々降伏!仙台藩の裏切りもあり孤立無援となった会津藩は一ヶ月にもわたる籠城戦を戦い抜きますが、ついに力尽き降伏するのです。


容保は東京へ送られ鳥取藩池田家に預けられ、その後死罪を免れ蟄居謹慎となります。容保の身代わりとして家臣の田中土佐、神保内蔵助、萱野権兵衛が戦争責任者として死罪となりますが、すでに田中土佐と神保内蔵助は自刃しており、萱野権兵衛ひとりが責任を一身に背負い切腹をして果てました。


1869年誕生した容保の子慶三郎(のちの容大)に家名再興が許され青森の下北に斗南藩3万石が誕生します。しかし、下北は極寒の地で農作物も育たず家臣たちは筆舌に尽くしがたい生活を強いられます。


1871年廃藩置県が施行され、容保は東京に住むよう命じられます。1880年には日光東照宮の宮司となりますが、1893年12月5日に東京目黒の自宅で肺炎のため59年の生涯を終えます。