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第一次長州征伐、第二次長州征伐

禁門の変(蛤御門の変)で攘夷派の公家と長州藩を京から追放した幕府は第一次長州征伐を慣行します。容保の兄である尾張藩主徳川慶勝(とくがわよしかつ)を総督に任命し36藩総勢15万の大軍を編成し長州に攻め込む計画を立てます。


これに対し保守派が主導権を握った長州藩では三人の家老(国司信濃、福原越後、益田右衛門介)を切腹させ、四人の参謀を斬首することで恭順の意を示しました。


長州征伐に参加した諸藩の中には長州藩に同情する者も少なくなく、さらにそれぞれ財政難を抱えていたことから戦争が拡大することを憂慮していたのです。


また、薩摩藩では長州を滅ぼしてしまうと幕府の力が再び強くなり、やがてその矛先が自分たちに向かってくることを警戒していたため長州に対して寛大な措置をするよう働きかけるのです。


こうした事情から徳川慶勝は長州藩の恭順の意を受け入れ討伐を中止します。この結果に幕府内の主戦派は大いに憤慨し、翌年には再び長州への討伐(第二次長州征伐)が決定され各藩に出陣を命じます。


一方、長州藩では高杉晋作らが蜂起して保守派を一掃するクーデターが成功し藩論を逆転させ幕府との対立姿勢を強めます。幕府を見限り方針を転換した薩摩藩と同盟(薩長同盟)を結び薩摩を経由して密かに武器の調達をはかり着々と軍備を整えるのです。


宿敵である長州と薩摩が同盟を結んだことなど知る由もない幕府は薩摩藩にも第二次長州征伐へ参加することを求めますが薩摩はこれを拒否します。薩摩藩が参加せず疑心暗鬼の中長州への攻撃が始まりますが、軍備を増強した長州藩の激しい抵抗にあいこう着状態へと陥ります。


そんな中、将軍家茂が逝去し腰砕けになった幕府軍は徳川慶喜が朝廷に働きかけ長州との間に停戦協定が結ばれることになります。


この第二次長州征伐の失敗で幕府の権威は失墜し、以後長州と薩摩を中心とする勢力に権力が移行していくことになったのです。