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甲州勝沼の戦い

東山道(中山道)を進む東山道鎮撫総督府は、途中で本隊と別働隊に分かれます。本隊は伊地知正治が率いてそのまま中山道を進み、板垣退助(乾退助)率いる別働隊は幕府の天領であった甲府を目指します。

乾退助(板垣退助)
*乾退助

このとき、板垣退助(乾退助)は乾から板垣へと改名します。板垣退助の祖先は武田信玄の重臣板垣信方(いたがきのぶかた)であり、武田家を慕う人々の多い甲州の地で戦いを有利に進めるための戦略でした。


その甲府には新選組局長である近藤勇の甲陽鎮撫隊も進軍していましたが、先に到着した新政府軍が甲府城を落とし有利な状況で両者が激突します(甲州勝沼の戦い)甲陽鎮撫隊には新選組の隊士もいましたが、多くの兵士が寄せ集めであり訓練も十分におこなわれていませんでした。

近藤勇(こんどういさみ)
*近藤勇

また、戦いが近づくと脱走する兵が相次ぎ、実際に戦闘に参加した者はおよそ120名だといわれています。兵力でまさる新政府軍に押され甲陽鎮撫隊は壊滅!近藤勇は流山で捕らえられ板橋刑場で4月25日に斬首となります。


江戸に向けて進軍する東征大総督府は、3月9日に幕府の歩兵差図役頭取であった古屋佐久左衛門(ふるやさくざえもん)率いる兵900に奇襲をかけ駆逐に成功します(梁田の戦い)


甲陽鎮撫隊と古屋佐久左衛門の兵を壊滅させたことで勢いを増した東征大総督府では3月15日を江戸総攻撃の日と決め着々と準備をすすめるのです。