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世良修蔵(せらしゅうぞう)殺害と奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)

世良修蔵(せらしゅうぞう)
*長州藩士 世良修蔵(せらしゅうぞう)

新政府軍は会津討伐のために奥羽鎮撫総督府を設置し、総督に九条道孝(くじょうみちたか)副総督に沢為量(さわためかず)を任命し参謀として醍醐忠敬(だいごただゆき)、下参謀に薩摩の大山格之助(おおやまかくのすけ)と長州の世良修蔵(せらしゅうぞう)を配し兵500をもって会津に向けて進軍するのです。


総督、副総督、参謀の三人は公家で名目的な存在であり、実権は大山格之助と世良修蔵が握っていました。公家を頭にすえることで朝廷から派遣された正式の軍隊であり、日本を統治するのは新政府であることを諸藩にアピールする狙いだったのです。


会津、庄内を除く東北諸藩は、仙台藩主の別邸で奥羽鎮撫総督府と対面するのですが、総督の九条道孝は会津藩主松平容保を死罪、庄内藩主酒井忠篤(さかいただずみ)を蟄居謹慎とする処分を発表し、両藩がこれを聞き入れない場合はただちに攻撃を開始することを命じたのです。


この命令を聞いた東北諸藩は驚き松平容保の助命嘆願を願いでますが、奥羽鎮撫総督府は「もう嘆願を聞き入れる時期は過ぎた!」としてこれををはねつけたでのす。元々、奥羽鎮撫総督府の下参謀には薩摩の黒田了介(黒田清隆 くろだきよたか)、長州の品川弥二郎(しながわやじろう)といった大物が就任していましたが、彼らは早々にこの任を辞退します。


新政府の方針は、会津藩と庄内藩の処分は東北諸藩の兵をもってこれにあたらせるという考えでした。そのため奥羽鎮撫総督には500名の兵しかいなかったのです。まだ新政府の支配力がおよんでいない東北地方にわずか500の兵で乗り込み、同じ東北の会津藩、庄内藩を攻めさせるという実に難しい任務を担っていたのが奥羽鎮撫総督府でした。


黒田了介、品川弥二郎ともにこの任務が困難であり、そう簡単に事が運ばないことを察知して早々に辞退したのでした。彼らにかわり下参謀に任命されたのが大山格之助と世良修蔵だったのです。


大山格之助 おおやまかくのすけ(大山綱良 おおやまつなよし)は、西郷隆盛、大久保利通、伊地知正治等と同じ精忠組(せいちゅうぐみ)に属した攘夷派の薩摩藩士で、剣の達人として知られています。


1862年に起きた寺田屋事件では島津久光の命令で暴発寸前の攘夷派同士を説得する側にまわります。この寺田屋では凄惨な同士討ちが行われますが、大山格之助たちが必死の説得にあたったため、多くの同士がこれを聞き入れ投降することになったのです。投降した同士の中には、のちに明治政府の高官となった大山巌(おおやまいわお)や西郷従道(さいごうじゅうどう)がいました。


長州藩士 世良修蔵(せらしゅうぞう)は、教養のない傍若無人な人物としてとりあげられることが多いのですが、世良の生家は周防国 大島郡椋野村の庄屋 中司家です。藩校明倫館で学び、金銭的に恵まれていたことから江戸に遊学した経験もあり、それなりの教養を身につけていたようです。


奇兵隊では書記を務め、第二奇兵隊では軍監となり、鳥羽・伏見の戦いでも勝利に貢献しその存在は新政府内でも知れ渡るようになります。品川弥二郎の辞退により奥羽鎮撫総督府下参謀という大役がまわってきたのです。


奥羽鎮撫総督府では世良修蔵が会津攻撃、大山格之助が庄内攻撃の任に当たることになります。会津攻撃の指揮官となった世良修蔵は仙台藩に対し会津を攻撃をするよう迫ります。


奥羽鎮撫総督府では会津攻略の鍵は仙台藩が握っているとみていました。仙台藩は東北随一の石高(62万石)を持つ大藩であり、仙台藩を会津討伐の中心にすえれば他の藩も追随すると考えたのです。


仙台藩と米沢藩は会津を助けるべく東北諸藩に働きかけ、4月11日には白石城に東北26藩の代表が集結し嘆願書に署名をします(白石会議)この嘆願書を奥羽鎮撫総督府に提出しますが、総督府はこれを却下して再度会津を討伐するよう命をくだしたのです。


長州藩士 世良修蔵にとって会津は憎き敵であり許すつもりは毛頭なく高圧的な態度を崩しませんでした。世良修蔵の存在が事態を悪化させているとみた仙台藩内部では「もはや世良を生かしておくことはできない!」とする空気が流れ、仙台藩士瀬上主膳(せのうえしゅぜん)、福島藩士鈴木六太郎らは宿屋で遊女と寝ていた世良修蔵を襲います。


寝込みを襲われた世良修蔵は抵抗を試みまずが多勢に無勢!窮地を脱するため2階から飛び降りますが重傷を負い捕らえられ、翌日阿武隈川の河原に引き出され斬首に処されます。


世良は処刑される前に大山格之助に宛てて密書を書いていたのですが、この密書が仙台藩士の手に渡り中身を見られてしまうのです。そこには「奥羽はすべて敵であり兵を増員して攻める」といった内容が記されていました。これを知った東北諸藩は憤慨し結束力をさらに固めていきます。


奥羽鎮撫総督府下参謀である世良修蔵を斬首したことで東北諸藩は新政府との戦争を決意します。5月3日には東北25藩の代表が白石城に集結し、仙台藩を盟主とする同盟が締結されます(奥羽列藩同盟)


翌4日には長岡藩が加盟し、さらに新発田藩など北越5藩も加わったため合計31藩からなる大規模な軍事同盟(奥羽越列藩同盟 おううえつれっぱんどうめい)が成立し、仙台藩を中心に新政府軍と戦うことになるのです。