会津藩は越後におよそ5万石の領地を所有していました。新政府軍との戦いが避けられない状況になると、戦略上の要地である越後に家老一瀬要人(いちのせかなめ)を総督とする1000名の兵士を送り防衛に当たらせます。
越後で最大の石高を持つ高田藩(15万石)は新政府軍の傘下に入り、新発田藩(10万石)はどちらにつくか態度を明確にしていません。そのような状況の中、会津藩にとって頼りになるのは越後長岡藩(7万4千石)でした。
越後長岡藩は、徳川譜代家臣であった牧野氏が治めていました。9代藩主 牧野忠精(まきのただきよ)の時代には幕府の老中をつとめるなど幕政にも参加をしていたのです。
幕末の越後長岡藩では第12代藩主 牧野忠訓(まきのただくに)から全権を任された河井継之助(かわいつぐのすけ)が藩政を取り仕切っていました。河井継之助は新政府にも会津にもくみすることなく中立の立場をとっていました。
中立の立場から両者の間に入り平和的に問題を解決すべく調停役になろうとしていたのです。河井は東山道軍参謀山県狂介(山県有朋)、黒田了介(黒田清隆)と会談し会津藩を説得するための時間的猶予を談判するつもりでしたが、山県、黒田は姿を見せず、軍艦である土佐の岩村精一郎(いわむらせいいちろう)が河井と面会します。
岩村はこのとき若干24歳! 血気盛んな若者であり、横柄で思慮に欠く性格であったようです。河井の嘆願を「戦の準備を整えるための時間稼ぎである」と一蹴し話し合いは決裂!若輩である岩村に面子をつぶされた格好になった河井は長岡藩の奥羽列藩同盟入りを決め、新政府と戦う道を選ぶことになるのです。
長岡藩の参加により勢いを得た奥羽越同盟軍は、5月13日の朝日山の戦いで奇兵隊参謀の時山直八(ときやまなおはち)を戦死させるなど戦いを有利に進めました。
新政府は5月19日に会津征伐大総督府を設置して、東征大総督符総裁である有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)が大総督に任命され、新たに越後口、白河口、平潟口の総督府が置かれ、
越後口総督に嘉彰親王(小松宮彰仁親王)、参謀には西園寺公望、黒田了介(黒田清隆 くろだきよたか)、山県狂介(山県有朋 やまがたありとも)、白河口総督に正親町公董(おおぎまちきんただ)、参謀に寺島秀之助、多久与兵衛、平潟口の総督に四条隆謌(しじょうたかうた)、参謀に木梨精一郎(きなしせいいちろう)渡辺清左衛門(渡辺清 わたなべきよし)がそれぞれ任命されます。
山県は降着した戦況を打開するため、越後口の兵力を大幅に増員し長岡城に奇襲をしかけ落城させることに成功します。長岡城を奪われた河井継之助は自ら陣頭で指揮をとり長岡城を奪還しますが、戦の最中に負傷しこの傷がもとで8月16日に死亡してしまうのです。
河井継之助の戦線離脱により士気が低下した奥羽越同盟軍は、新政府軍に再び長岡城を奪われると会津に向けて敗走します。こうして越後を制圧した新政府軍は会津に向けて軍を進めるのです。