戊辰戦争(ぼしんせんそう) 米沢藩
上杉景勝を藩祖とする米沢藩上杉氏は、豊臣秀吉の時代に120万石を誇る領地を治めていましたが、関ヶ原の戦いで西軍についたため戦後30万石に減封されます。
景勝の孫である3代藩主 綱勝の時代に米沢藩はお家断絶の危機に直面します。綱勝は子宝に恵まれず1645年に急死してしまいます!養子もいなかったため取り潰されても仕方のない状況だったのです。
この窮地を救ったのが、会津藩祖 保科正行でした。綱勝の正室である媛姫は正行の長女であり、米沢藩の危機に正行は奔走します。
綱勝の妹富子と吉良義央(吉良上野介)の間に生まれた長男 上杉綱憲(うえすぎつなのり)を末期養子として4代藩主に迎えることに成功!この件で米沢藩は30万石から15万石に減封されますが、家名断絶を避けることができたのです。
米沢藩では120万石から30万石に減封されたときに、直江兼続の方針で家臣の解雇をしませんでした。領地が大幅に削減されたにもかかわらず、家臣の数はそれほど減っておらす、このことが慢性的な財政不足の要因となります。
戊辰戦争時は12代藩主上杉斉憲(うえすぎなりのり)の治世でした。斉憲は財政難の中でも早くから軍制の改革に着手し、大砲隊や銃隊を中心とする西洋式軍制を備え訓練も行っていました。幕府の命により京都警備の任に当たり1866年にはおよそ4万石を加増されます。
鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗れると、薩長を中心とする新政府は会津、庄内討伐のため奥羽鎮撫総督府を東北に派遣します。
米沢藩は関ヶ原の戦いの経緯もあり徳川家に対しては複雑な思いをもっていましたが、お家断絶の危機を救ってくれた保科正行(会津藩)には恩義を感じていました。そのため会津を擁護したというのが通説になっています。
東北の地を戦場にしたくない!戦争に巻き込まれたくない!という気持ちもあったのでしょう、なんとか事を穏便に済ませようと仙台藩とともに会津救済に奔走します。4月11日には白石城に東北26藩の代表が集結し嘆願書に署名をします(白石会議)しかし、総督府はこれを却下して強硬な態度を崩しませんでした。
奥羽鎮撫総督府と会津藩の間に入り仲裁を斡旋する米沢藩でしたが、総督府の高圧的な態度に憤慨した仙台藩士らが下参謀 世良修蔵(せらしゅうぞう)を殺害する事件が起こります。
下参謀を殺害した以上、新政府軍との戦はさけられない状況であり、仙台藩に引きずられる形で東北諸藩は戦いを決意するのです。米沢藩では軍事総督 千坂高雅(ちさかたかまさ)、参謀 甘糟継成(あまかすつぐしげ)を中心に軍勢を整え越後方面に出兵します。
長岡藩の河井継之助(かわいつぐのすけ)や会津藩家老 一瀬要人(いちのせかなめ)とともに新政府軍と戦闘を繰り広げますが、7月29日に新潟防衛の任をおっていた奉行(家老) 色部久長(色部長門)が戦死すると米沢藩の士気は衰え越後から撤退します。
9月4日に米沢藩は新政府に降伏します。藩主 斉憲の正室が土佐出身であったため、土佐藩を介しての降伏でした。新政府は米沢藩に対して4万石の減封と戦争首謀者1名を挙げるよう命じます。
本来であれば主戦派だった軍事総督の千坂高雅が責任をとるのですが、米沢藩では千坂を守るためにすでに死亡していた色部久長(色部長門)を首謀者とするのです。
これにより千坂は処分されずに済みましたが、色部家は断絶となり戦争の責任を一身に背負うことになったのです(明治に入り色部家は家名再興が許されます)