戊辰戦争(ぼしんせんそう) 久保田藩(秋田藩)
佐竹義宣(さたけよしのぶ)を藩祖とする久保田藩(秋田藩)佐竹氏は関ヶ原の戦い以前は常陸国を領有する54万石の戦国大名でした。
佐竹氏は平安時代から続く名門で、八幡太郎と呼ばれた源義家の子源義光(新羅三郎義光)を祖とする清和源氏(河内源氏)の系統です。
関ヶ原の戦いでは中立の立場をとり参加しなかったのですが、西軍についた上杉氏との密約を疑われ、常陸から出羽国へ国替えを命じられます。(石高は54万石から20万石へと減封)
戊辰戦争時は12代藩主 佐竹義堯(さたけよしたか)が治めていました。奥羽鎮撫総督府は久保田藩(秋田藩)に庄内藩を攻撃するよう命じます。この命を受け藩内では佐幕派と尊王攘夷派が対立!当初は奥羽越列藩同盟に参加をしていましたが、攘夷派が巻き返しをはかります。
裏切りを警戒した仙台藩では久保田藩に正史を派遣しますが、この正史が藩内の攘夷派志士たちにより惨殺されてしまうのです。正史11名を殺害された仙台藩は憤慨し久保田藩に兵を送り、庄内藩、南部藩とともに久保田藩を攻撃します。
四方から攻められた久保田藩は劣勢に立たされますが、新政府軍が兵を増員したため何とか持ちこたえます。会津が降伏したことにより久保田藩の戦争は終結しますが、戦場となったことで領内では多くの民家が焼かれ、略奪や暴行も行われました。
莫大な戦費を負担した久保田藩では、戦後大幅な加増を期待しますが、わずか2万石しか与えられませんでした。藩士300名以上が戦死し、領内が荒廃した代賞としてはあまりに少なく藩内に不満がくすぶる結果となったのです。