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戊辰戦争(ぼしんせんそう) 庄内藩

庄内藩は、徳川四天王 酒井忠次の孫酒井忠勝(さかいただかつ)を藩祖とします。最上騒動により出羽山形藩57万石が改易されると、信濃松代藩10万石の藩主であった酒井忠勝が3万8000石を加増され出羽庄内藩の初代藩主となります。以後明治維新まで庄内藩は酒井氏が治めることになります。


戊辰戦争時は11代藩主酒井忠篤(さかいただずみ)が治めていました。酒井忠篤は、1863年幕府の命令により江戸市中取締役に任命されます。1868年には治安を乱す行為を続ける薩摩に対し藩邸を焼討ちします。


この事件により庄内藩は会津藩とともに討伐の対象とされ、奥羽鎮撫総督府の下参謀である大山格之助が庄内討伐の任にあたります。会津と同盟を結び新政府軍を迎え撃つ体勢を整える庄内藩は最新の銃器を備える軍隊をもっていました。


庄内藩では、山形県酒田市の豪商本間氏の資金提供により最新の新式銃を大量に購入して軍備の増強をしていました。奥羽越列藩同盟を離脱した久保田藩(秋田藩)に対し攻撃をしかけます。


最新の武器を揃えた庄内藩は、槍、刀、火縄銃中心の久保田藩(秋田藩)を圧倒!奥羽鎮撫総督府の兵力不足もあり連戦連勝を重ねます。危機感を抱いた新政府はアームストロング砲を備える佐賀藩を援兵として秋田戦線に投入!これにより戦況はこう着状態となります。


9月4日に米沢藩、9月20日には仙台藩、9月22日には会津藩が相次いで降伏したことにより孤立無援となった庄内藩は9月26日に降伏をします。最後まで新政府に敵対した庄内藩には領地没収の処分がくだされ藩主 酒井忠篤は謹慎となりますが、弟の忠宝(ただみち)に12万石が与えられ家名の存続が許されます。


本間家による多額の献金や、庄内藩の戦いぶりに感心した西郷隆盛のとりなしにより酒井家は比較的軽い処分で済んだのです。以後、酒井家は西郷隆盛を敬愛するようになり、薩摩藩と親交を深めていきます。