白河城攻防(白河口の戦い)西郷頼母と伊地知正治(いじちまさはる)
福島県の南部に位置する白河は昔から奥羽の玄関口とされてきました。江戸時代は徳川家の親藩、譜代である、松平家、本多家、阿部家などが治めていましたが、戊辰戦争時は天領となり二本松藩の預かり地でした。
そのため、白河城は城主のいない空き城となっていたのです。白河は奥羽越列藩同盟にとっても、新政府にとっても戦略上重要な地であり、この白河をどちらが制圧するかで戦いの大勢が決まるといっても過言ではなかったのです。
会津藩は奥羽同盟が締結されると藩兵を白河城に入城させます。さらに、家老西郷頼母を白河口総督、若年寄横山主税(よこやまちから)を副総督に任命して1000人を越える藩士を白河口の守りにあたらせます。
さらに、仙台藩からも坂英力率いる軍勢が応援に駆けつけ、棚倉藩、二本松藩、新撰組や幕軍の一部も参加し総勢2500の兵力でこの白河を死守すべく陣をはります。
一方、新政府軍は薩摩の伊地知正治(いじちまさはる)率いる兵およそ700が白河攻撃の任にあたります。伊地知正治は幼い頃の大病により手と足が不自由になりますが、ハンディキャップにもめげず剣術と兵学を極めた努力の人です。
薩摩藩の藩校である造士館の教授を務めたこともあり、西郷隆盛、大久保利通、吉井幸輔らと同じグループ(のちに精忠組と呼ばれる)に属し、薩摩藩の藩政や軍制に関与します。
その功績により軍奉行に任命され、戊辰戦争では土佐の板垣退助(乾退助)とともに東山道(中山道)鎮撫総督府参謀となります。戊辰戦争において薩摩藩の軍略をたてたのは伊地知正治であり、少数精鋭の兵と最新の銃器で相手を撃破する戦法を得意としていました。
白河口においてはわずか700人で列藩同盟軍2500人と相対します。兵力で劣る伊地知は敵の陣容をつぶさに観察し兵を3隊に分けます。列藩同盟軍の本隊が陣どる稲荷山を総攻撃するとみせかけ、迂回した左右の隊が雷神山と立石山を防衛している同盟軍に奇襲をかけ撃破します。
稲荷山の列藩同盟軍本隊を囲むかたちとなった新政府軍は、最新の銃器で同盟軍に銃弾の雨をあびせ、これを壊滅させ城下に攻込み白河城を占領するのです。この日の戦いにおける戦死者は、列藩同盟軍700人以上、新政府軍10ー20人といわれています。
会津藩では若年寄の横山主税が討死、仙台藩の参謀坂本大炊も銃弾を受け死亡するなど新政府軍の歴史的な圧勝に終わったのです!列藩同盟軍はなぜこれほどの大敗をしたのでしょうか?
兵力で圧倒しながら惨敗した鳥羽・伏見の戦い同様、列藩同盟軍には戦略というものがありませんでした。列藩同盟軍は寄せ集めの軍であり、統一した戦術、命令系統というものがなかったのです。
主力となった会津藩の総督は実戦経験のない西郷頼母でした。容保の京都守護職就任に反対を唱え謹慎処分を受けていたため、京都での滞在経験がなく、禁門の変や鳥羽・伏見の戦いにも参加していなかったのです。さらに、仙台藩に至っては坂英力はじめほとんどの藩士が戦争経験がなかったのです。
新政府の圧倒的な銃器の性能について情報は得ていたと思われますが、知識として知っているのと体験しているのではまったく違います。相手が少数だったこともあり油断をしていたのでしょう。戦力の分析や陣容など情報収集の面でもはるかに劣っていたのです。
実戦経験豊富な新撰組隊士が、白河城にいる兵の一部を手薄になっている陣に向かわせるべきと主張したのですが、同盟軍は兵力で勝っているのだからそのような必要はない!としてこれを退けてしまうのです。
容保が戦争の勝敗を分ける重要な白河口の責任者になぜ西郷頼母を任命したのか?頼母の諫言を聞かず京都守護職を受け、朝敵となってしまったことへのうしろめたさなのか?人材が不足していたのか?後年容保は会津戦争について多くを語ろうとしなかったので真相はわかりません。
白河を制圧された列藩同盟軍は、以後兵力の増員を行いながら7回にわたり白河を攻めます。上野戦争、今市の戦いで勝利し、戦力に余裕のでてきた新政府軍も兵力を大幅に増員したため、白河を陥落させることができず7月14日を最後に白河から撤退します。
7月14日の白河撤退、7月29日の長岡城陥落によって戊辰戦争の大勢は決します。新政府は本丸である会津を攻めるべく会津包囲網を徐々に狭めていくのです。