中野竹子(なかのたけこ)と娘子隊(じょうしたい)
8月23日に若松城下に侵攻した新政府軍に対し、会津藩では城内に避難し遅れた藩士の家族が多数自害します。入城できなった女性たちの中で、中野竹子、優子姉妹とその母こう子、神保雪子、依田まき子、菊子姉妹、岡村ます子ら二十数名が照姫(てるひめ)護衛のために組織した集団を娘子隊(じょうしたい)と呼びます。
娘子隊(じょうしたい)は後に付けられた名称であり、会津藩の正式な軍隊ではありません。照姫(てるひめ)が坂下宿(ばんげじゅく)に避難しているとの情報を得た娘子隊は照姫を護衛すべく坂下宿に向かいますが、この情報は誤報であり照姫は城内にいたのです。
行き場に窮した娘子隊(じょうしたい)は戦って死ぬことを決意し、家老 萱野権兵衛(かやのごんべえ)に戦闘への参加を願い出ます。婦人を戦場にだすことは武士にとっての恥辱であり、萱野はこの申し出を断ります。
しかし、「願いをきいていただけないのであれば自刃するしかありません」と懇願する娘子隊に根負けした萱野は出陣の許可を与えます。娘子隊は髪を切り落とし、涙橋方面へと出陣します。
中野竹子は娘子隊の中で最年少である優子を心配します。姉に劣らず美人であった優子がもし敵に生け捕りにされれば、慰みもの(夜の相手をさせされる)になり恥辱を受けることになるからです。
そうならないために、いっそのこと今ここで優子を殺してしまおうと母こう子と相談するのでした。中野親子の話しを聞いていた依田菊子がびっくりして、これを止めたという話しが伝わっています。
決死の覚悟で戦場に臨んだ娘子隊は、柳橋(涙橋)で長州、大垣藩兵と戦闘を交えます。薙刀を振り回し奮戦する娘子隊ですが、中野竹子が頭部に銃弾を受け絶命!優子は姉の首を敵に渡すまいとして銃弾をかいくぐり姉に近づきます。
会津藩の兵士が優子を守り、優子は姉の首を切り落とすことができたのです。「もののふの 猛き心にくらぶれば 数にも入らぬ我が身ながらも」竹子の薙刀に結ばれていた辞世の句と言われています。竹子の首は法界寺に葬られました。
神保雪子は、会津藩大組物頭である井上丘隅(いのうえおかずみ)の娘で、会津藩若手リーダーのひとりであった神保修理に嫁ぎます。夫 修理が鳥羽・伏見の戦いの責任を一身に背負い切腹して果てたため未亡人となっていました。
城下に敵が侵入すると丘隅は一家自刃を選択しますが、雪子に対して「お前は神保家の嫁なのだから神保家と運命を共にしなさい」と説得し、雪子を家から出します。夫の無念をはらしたい!敵をとりたい!そんな思いもあったのでしょうか、雪子は娘子隊に参加して敵と戦火を交えます。
しかし、戦いの最中、竹子同様に敵の銃弾を受け死亡します。神保雪子の死についてはよくわかっていません。竹子と同じく戦場で死んだのであれば、もう少し詳しい記述が残っていてもよさそうなものです。
敵の捕虜になったあとで自害したという説もあることから、捕虜になったという汚名を残さないために、戦場で討死したことになったのかもしれません。
その後、娘子隊は若松城に入城し照姫と面会することができました。生き残った中野こう子、優子たちは会津籠城戦でよく働きその活躍は後世に語り継がれました。