槇村正直(まきむらまさなお)は、長州藩下士羽仁家の二男として1834年に誕生します。優秀であったため槇村家の養子となり、長州藩祐筆を務めたのち、木戸孝允(桂小五郎)の推薦で京都府に出仕することになります。
当時の京都は、幕末の動乱(禁門の変、鳥羽・伏見の戦い)で興廃しており、さらに1868年~69年にかけて行われた実質的な東京への遷都による人口の減少で活気が失われた状態にありました。
京都府権大参事(ごんのだいさんじ)となった槇村は、興廃した京都の復興に取り組みます。槇村は自分の手足となって働いてくれる優秀な人材を探していました。そんなとき、京都府大参事河田景与からひとりの人物を紹介されます。
それが山本覚馬でした。槇村は、覚馬の持っている西洋技術の知識を高く評価し、破格の待遇で覚馬を京都府顧問に迎えます。槇村と覚馬は、日本の伝統工芸に西洋の技術を取り入れた新しい製品の開発を推奨し、これらの製品を博覧会を通じて国内外の人々に積極的にアピールをするのです。
槇村と覚馬の二人三脚の政策により復興が順調に進んでいくかのように思えましたが、ここに大きな問題が浮上してきます。それが、小野組の転籍問題です。
江戸時代から続く「小野屋」は、分家をあわせると日本全国におよそ30店舗を保有する豪商でした。明治に入ると分家三社が合併して「小野組」とりますが、この「小野組」が本社を京都から東京に移したいと願いでたのです。
小野組に京都から出て行かれると、税収が大幅に落ち込むことは確実であり、復興のきざしが見えてきた京都にとって深刻な問題だったのです。京都府知事 長谷信篤(ながたにのぶあつ)と大参事 槇村正直は小野組の転籍届けを処理しようとせず認めませんでした。
これに対し小野組は、京都の裁判所に訴訟を起こします。その結果、裁判所は京都府に対し転籍を認めるよう命令をだしますが、京都府はこの判決を無視して応じませんでした。
京都府(行政)と裁判所(司法)の対決となってしまった小野組転籍問題は、新政府内の権力争いを反映したものでした。新政府内では征韓論をめぐり佐賀出身の参議江藤新平と長州出身の参議木戸孝允が対立していました。
江藤は司法卿を務めたこともあり、司法省内に強い力を持っていたのです。司法の独立を無視するかのような槇村の態度に憤慨した江藤は、京都裁判所の裁判官に北畠治房を送り込み、小野組の転籍を認めるよう強く迫ります。
それでもなお命令に従わない京都府に対し業を煮やした司法省は、東京に来ていた槇村の身柄を拘束し収監するという強硬手段に打って出たのです。槇村とともに京都の復興をすすめてきた覚馬は、槇村の窮地を救うべく八重を伴い東京へ向かいます。
東京では、岩倉具視や木戸孝允、江藤新平と面会をして、槇村の赦免を嘆願するのです。征韓論に敗れた江藤新平が参議を辞職したのを機に、岩倉具視の政治決断で槇村は釈放されます。京都府は小野組の転籍を認め、槇村には罰金刑が科され再び京都府の行政を担うことになったのです。