自責の杖事件(じせきのつえじけん)
新島襄が設立した同志社英学校は、開校当時生徒数はわずか8名でしたが、その後熊本バンドの転入などもあり生徒数は増加します。それでも定員割れが生じる厳しい状態でした。
不足している生徒数を補うため、同志社では年度途中でも面接を行い合格した者を入学させていました。正規入学者と途中入学者では、学力の差があるため、正規入学した者を上級組、途中入学した者を下級組に分けて授業を行っていたのです。
しかし、別々に授業を行うのは効率的ではないと判断した学校側は、生徒数の少なかった2年生の上級組と下級組を合併して授業を行うことを決定します。この決定に納得のいかない上級組は、新島襄が伝道活動で学校を留守にしている間に授業をボイコットするという抗議行動にでたのです。
伝道活動から戻った襄は、2年生の上級組に対し授業にでるよう説得を試みます。最初は拒んだ2年生上級組も、涙を流しながら説得する襄の気持ちを理解し、ボイコットしたことを詫びて授業にでることを約束するのです。
ようやくボイコットを解消した襄ですが、もうひとつの問題が残っていました。それは、授業を無断で欠席してはならないという同志社の校則でした。授業を集団欠席した2年生上級組の行為は校則違反であり、違反したものを処罰すべきとの声があがったのです。
校則違反の処罰をめぐり思い悩んだ襄は、1880年4月13日朝の礼拝で壇上に立ちます。集まった生徒を前にして襄は「今回の集団欠席は、私の不徳、不行き届きの結果起こったことであり責任は自分にある」と話し、突然右手に持っていた杖で自らの左手を叩き始めたのです。
何度も何度も激しく打ち付けたことにより、襄の手は腫れあがり杖は二つに折れ、やがて三つに折れ破片が飛び散ります。それでも止めようとしない襄の腕に生徒がすがり、泣きながら自責を止めるよう懇願します。
襄の自責に感銘を受けた生徒のひとり堀貞一は、折れた杖を拾い集め自分の宝物として大切に保管しました。この杖はのちに同志社で管理され、現在は新島遺品庫で保管されています。