山本覚馬と槇村正直の対立
東京への遷都により、さびれてしまった京都の復興を任された槇村正直と山本覚馬は、殖産興業を推進して京の町の近代化にとりかかります。
小野組転籍事件で投獄された槇村を救うため、東京に行き政府高官に赦免嘆願するなど槇村と山本覚馬は二人三脚で府政に取組んでいました。しかし、そんな蜜月関係も長くは続きませんでした。
覚馬は新島襄と知り合ったことで、キリスト教の教えに基づく学校の設立に協力するようになります。槇村も教育の重要性は認識していたため、はじめは協力的でしたが、反対勢力の抵抗が激しくなり軋轢が生じてきたことから、学校設立に消極的になります。
あくまで学校設立を推し進める覚馬の顔を立て、同志社英学校を認めた槇村でしたが、覚馬の妹である八重が新島襄と婚約すると、槇村は部下に命じて八重を女紅場から解雇してしまうのです。
覚馬は八重と結婚して義理の弟となった襄の同志社英学校を全面的にバックアップしますが、1877年12月京都府顧問を突然解雇されます。勧業政策も軌道に乗り、もはや覚馬がいなくても復興計画に支障はないと考えた槇村は、自分の思い通りにならない覚馬を切り捨てたのです。
いったん府政から離れた覚馬ですが、1879年に開設された京都府会の府会議員に選ばれます。今度は、府の政策をチェックする議員の立場で府政に関わることになったのです。
さらに、覚馬は第一回京都府会において議長に選出されます。身体の不自由な覚馬は妻の時栄に背負われ議長席についたそうです。府政を厳しくチェックする覚馬たち府会に対して、槇村は敵対心をあらわにします。
地方税の追徴を議会の承認なしに決めた槇村に対し、議会軽視だと議員が反発して争いになります。知事の権力で強引に押し切ろうとする槇村ですが、覚馬たち府会は内務省に知事弾劾の上申書を提出しこれに対抗します。
知事と議会の対立はマスコミでもとりあげられ、自由民権運動が盛り上がりをみせる中、世間の注目するところとなったのです。政府内でも槇村の強権的な政治を問題視する声があがり、1881年には京都府知事から元老院議官への転出が決まり、京都府を去ることになるのです。
槇村が京都を去ると、覚馬も議員を辞職します。最後は対立するかたちとなった覚馬と槇村ですが、二人三脚で京都復興のため府政にとりくんできたわけですから、覚馬なりのけじめをつけたのでしょう。