新島襄の死後、八重は社会奉仕活動(日本赤十字社の篤志看護婦)に積極的に参加をします。その一方で、茶道にも強い関心を示し、裏千家十三代 圓能斎鉄中(えんのうさいてっちゅう)に入門し茶道を学びます。
裏千家は、千宗室を祖とする茶道の流派です。千利休の娘お亀の子である千宗旦(せんそうたん)の三人の息子たちはそれぞれ流派を起こします。次男の宗守が武者小路千家、三男の宗左が表千家、四男の宗室が裏千家。彼らの起こした流派は「三千家」として現代まで続いています。
八重がかつて働いていた女紅場(にょこうば)では茶道の授業があり、裏千家が講師を担当していました。八重が茶道と出会ったのはこの時期だといわれています。八重が師事した裏千家十三代 圓能斎鉄中は、幕末から明治にかけての動乱の中で没落した茶道を復興すべく積極的に活動します。茶道を広めるために、女性にも門戸を開放し女子教育の中に茶道を取り入れました。
八重は篤志看護婦の活動を終えると、ますます茶道の道に傾倒するようになり、自宅の一室を改装して茶室(寂中庵 じゃくちゅうあん)をつくります。やがて宗竹の名を授かり裏千家の師範となって門人をとることまで許されるようになります。
茶器や掛け軸など高価な茶道具を揃えるにはそれなりのお金がかかります。八重は襄が残してくれた邸宅や資産をすべて同志社に寄付するかわりに同志社から年金をもらっていました。普通に生活していくには十分な額が支給されていたそうですが、それでも足りなくなると同志社に増額をお願いしていたようです。
八重が茶道に没頭したのは、心の平穏、安住を茶道に求めたこともあるでしょうが、茶道を通じて様々な人と知り合いになり、交流を深めていくことが同志社の役に立つと考えたのかも知れません。