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新島八重永眠

夫である新島襄が亡くなったあと八重が積極的に取り組んだものが3つあるといわれています。社会奉仕活動(篤志看護婦)と茶道、そしてもうひとつが会津の汚名返上です。


戊辰戦争で会津藩は朝敵となり、廃藩置県で藩が消滅した後も会津の人びとは「賊軍」として差別を受けていました。八重は京都に来てからも会津の人たちと関わりを持ち続けます。


同志社英学校が創設されると、生活に困窮している元会津藩士の子弟を多数受け入れます。松平容保の長男 松平 容大(まつだいらかたはる)も同志社英学校に入学しています。


会津に帰郷し、懐かしい人たちと再会した八重の思いはますます強くなっていきます。会津松平家の名誉を回復することは、八重だけでなく会津すべての人たちの願いでした。


そんな会津の人たちの思いが現実になります。1928年(昭和3年)9月28日松平容保の孫娘 勢津子(せつこ)と昭和天皇の弟 秩父宮雍仁親王(ちちぶのみややすひとしんのう)の婚儀が執り行われたのです。


会津若松では市をあげての大規模な祝賀会が開かれ、大人から子供まで喜びをわかちあったそうです。八重はのちに回顧録でこのときのことを「会津藩士すべての喜び」と語っています。


さらに1930年(昭和5年)には、徳川慶喜の孫娘 喜久子と昭和天皇の弟、秩父宮雍仁親王の弟である高松宮宣仁親王(たかまつのみやのぶひとしんのう)の婚儀が行われます。


「賊軍」「朝敵」となった会津松平家と徳川家の名誉が回復されたことを見届けると、もうこの世に思い残すことはないと思ったのでしょうか。八重は1932年(昭和7年)6月14日 襄とともに過ごした自宅(新島旧邸)で静かに息を引き取ります。享年86歳。


死因は急性胆のう炎とされています。6月17日に同志社で社葬が行われ4000人が参列をしました。八重の棺は若王子に運ばれ、夫新島襄の隣に埋葬されます。


激動の幕末から明治を生き抜いた新島八重!「賊軍」「キリスト教」「男尊女卑」八重の人生は偏見との戦いでもありました。多くの困難にぶつかりながらも、自分の信じる道を進み人生を切り開いていった八重!


「彼女は見た目はハンサムではありません。ただ、おこないが非常にハンサムなのです」夫である新島襄が八重を評した言葉です。「ハンサムウーマン」と呼ばれる彼女の生き方は、現代に生きる私たちも学ぶべきところがたくさんある!そう感じました。