ジャンクワードドットコム・暮らし、生活百科事典

黒田官兵衛コンテンツ一覧

軍師官兵衛 雑学・豆知識

コンテンツ一覧

福岡52万石と黒田官兵衛の死 辞世の句「おもひおく 言の葉なくて つひに行く 道はまよはじ なるにまかせて」

関ヶ原の戦いにおける論功行賞で黒田家は豊前中津12万石から筑前一国52万石へと加増されます。筑前国に入封した黒田長政は名島城に入りますが、城下町を拡張するには手狭であったため、

関ヶ原の戦いと黒田長政

*関ヶ原の戦い勢力図(布陣図) 画像を拡大する 関ヶ原の戦いにおいて黒田長政は主力軍5400人を率いて関ヶ原本戦で西軍と戦いました。黒田家の石高は12万石(実高は18万石)で

関ヶ原の戦いと黒田官兵衛

*関ヶ原の戦い九州の勢力図 1598年8月18日豊臣秀吉がこの世を去ります。豊臣政権下における石田三成を中心とする奉行衆と福島正則、加藤清正らの武断派の争いは朝鮮の役でさらに

倭城(わじょう)

*倭城(わじょう) 倭城(わじょう)とは、朝鮮の役において日本軍が築城した日本式の城、砦のことです。文禄・慶長の役を通じて朝鮮国内にはたくさんの倭城が築かれました。 倭城(わ

朝鮮の役(慶長の役)と黒田官兵衛

豊臣秀吉は、文禄の役で16万の軍勢を朝鮮に送ります。戦い当初は朝鮮軍の油断もあり、日本軍の快進撃が続きますが、李舜臣率いる水軍に敗れ制海権を握られるとしだいに劣勢に立たされ深刻

朝鮮の役(文禄の役)と黒田官兵衛

*朝鮮の役 朝鮮半島の地図 明征服を夢見る豊臣秀吉は、その先駆けとして朝鮮国を攻める準備にとりかかります。1592年、朝鮮出兵の兵站(へいたん)基地として肥前名護屋城を築くと

官兵衛と肥前名護屋城(ひぜんなごやじょう)

*肥前名護屋城図屏風 肥前名護屋城(ひぜんなごやじょう)は、朝鮮出兵のための兵站(へいたん)基地として1592年に築城されました。 豊臣秀吉は小田原征伐により関東の雄 北条氏

小田原城開城と黒田官兵衛

1590年豊臣秀吉は天下統一事業の仕上げとして関東の雄 小田原北条氏の討伐を宣言します。20万を超える軍勢を引き連れ関東に攻め込んだ秀吉は小田原城を取り囲むとともに、北条方の城

石垣山一夜城(いしがきやまいちやじょう)

*小田原征伐・石垣山一夜城 石垣山一夜城(いしがきやまいちやじょう)は、小田原征伐において豊臣秀吉が石垣山に築城した山城です。 20万を超える大軍で北条氏を攻めた秀吉は小田原

小田原征伐(おだわらせいばつ)

*小田原城見取図 1587年5月九州征伐により島津氏を降伏させた豊臣秀吉は天下統一事業の仕上げとして小田原北条氏と相対することになります。 北条早雲を祖とする小田原北条氏(後

後北条氏(ごほうじょうし)と戦国時代 関東の勢力図

*室町~戦国時代 関東の勢力図 平安、鎌倉、室町時代にかけて関東では、秩父氏、河越氏、畠山氏、三浦氏、安達氏、足利氏、松田氏、大森氏、曽我氏、結城氏、里見氏、千葉氏、佐竹氏、

黒田官兵衛・長政 宇都宮鎮房(うつのみやしげふさ)を誅殺!

九州征伐の論功行賞で豊前国に六郡を与えられた黒田官兵衛は1587年6月新領地に入封します。京都郡(みやこぐん)の馬ヶ岳城(うまがだけじょう)に入った官兵衛と家臣団はここを拠点に

黒田官兵衛 豊前中津12万石の領主に

*九州征伐後の勢力図 九州征伐が終了すると豊臣秀吉は九州の国分(領土の配分)を行います。主な大名の領地は以下の通りとなりました。 小早川隆景・・・筑前国と筑後国の二郡、肥前国

豊臣秀吉・黒田官兵衛の九州征伐

*九州征伐 耳川の戦いで大友軍を、沖田畷の戦いで龍造寺軍を敗った島津軍は、豊臣秀吉の「惣無事令」を無視して北九州へ攻め込みます。 秀吉の軍勢が九州に来る前に九州全域を制圧して

島津四兄弟と戦国時代の九州勢力図

*島津氏系図(島津四兄弟) 島津四兄弟とは、島津家15代当主島津貴久(しまづたかひさ)の四人の息子たち、嫡男 義久、次男 義弘、三男 歳久、四男 家久の総称です。 島津氏は秦

豊臣秀吉・黒田官兵衛の四国征伐

*四国征伐 四国の城 織田信雄との和睦により、小牧・長久手の戦いに一応の決着をつけた羽柴秀吉は、敵対する根来・雑賀衆を殲滅するため紀州国に侵攻します。 千石堀城、積善寺城など

長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の四国統一

*戦国時代 四国の勢力図 1575年渡川の戦いで一条兼定の勢力を土佐から駆逐!土佐を手中に収めた長宗我部元親は、阿波国、讃岐国、伊予国へと兵を進め四国の統一に乗り出します。

長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)土佐統一

*土佐を統一した長宗我部元親(ちょうそかべもとちか) 長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)は、土佐の国人領主 長宗我部国親(ちょうそかべくにちか)の嫡男として1539年に誕生

小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)

本能寺の変後、織田家を支えてきた4人の宿老の明暗が分かれます。主君信長を討った明智光秀は山崎の戦いで秀吉に敗れ竹やりで刺殺されます。 柴田勝家は賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ自刃!、

岸和田城の戦い(きしわだじょうのたたかい)

1583年4月賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れた柴田勝家は居城 北の庄城で自刃します。 勝家とともに挙兵した織田信長の三男信孝は、秀吉と手を組んだ兄の信雄によって攻込まれます。

豊臣秀吉の大坂城 中井家本丸図

*中井家本丸図 豊臣家の権力の象徴であった大坂城は大坂夏の陣で炎上消失します。秀吉時代の大坂城については、黒田家が所有していた*「大坂夏の陣図屏風」などいくつかの絵図によって

大坂城築城と黒田官兵衛

1583年4月柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破った羽柴秀吉は、織田信長の後継者としての地位を着実に固め、9月になると大坂城の築城に着手します。 大坂の地は本願寺8世蓮如が1496年に

賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)

*賤ヶ岳の戦い 山崎の戦い(やまさきのたたかい)で明智光秀を打ち破った羽柴秀吉は、織田家の後継者を決める清洲会議(1582年10月)において信長の嫡孫である三法師(信長の嫡男

山崎の戦い(やまさきのたたかい)

*山崎の戦い 天正10年(1582年)6月2日 本能寺に滞在中の織田信長を急襲した明智光秀は信長と嫡男信忠を自刃させその目的を果たします。 京都周辺には信長配下の有力な武将た

中国大返し 毛利は本能寺の変をいつ知ったのか?

天正10年(1582年)6月2日 備中出陣のため本能寺に滞在していた織田信長は家臣明智光秀の謀反にあいその生涯を終えます。 備中高松城を攻めていた羽柴秀吉、黒田官兵衛のもとに本

中国大返し(ちゅうごくおおがえし)と黒田官兵衛

信長の命令により備中に侵攻した羽柴秀吉は、清水宗治の居城備中高松城を水攻めにして落城寸前に追い込みます。 対する毛利も総大将の輝元自ら出陣して救援に向かいますが、要所を秀吉方

高松城水攻め

鳥取城を落城させた羽柴秀吉、黒田官兵衛は伯耆国(ほうきのくに)にも侵攻する勢いをみせますが、因幡と伯耆の国境付近には吉川元春率いる軍勢が決死の覚悟で陣をひいていました。 無理

鳥取城の戦い 鳥取の渇殺し(かつえごろし)

1579年10月荒木村重の居城有岡城が落城し、幽閉されていた黒田官兵衛が家臣によって救出されます。 劣悪な環境での幽閉生活により皮膚病を患っていた官兵衛は頭髪が抜け落ち、足の

因幡国(いなばのくに)勢力図 室町時代~戦国時代

因幡国(いなばのくに)は現在の鳥取県東側で、播磨国、但馬国、美作国、伯耆国と隣接していました。室町時代には山名氏が守護となります。 山名氏は新田氏の一族で、源義家の孫である新

竹中半兵衛と黒田官兵衛

豊臣秀吉の天下取りを支えたふたりの軍師 竹中半兵衛と黒田官兵衛!竹中半兵衛が秀吉に仕えたのが1567年ごろだと推測されています。 以降、姉川の戦い、小谷城攻め、長篠の戦い、三

黒田官兵衛と荒木村重 有岡城幽閉!

東播磨の別所長治(べっしょながはる)の裏切りは播磨平定に尽力してきた黒田官兵衛にとって衝撃の事件でした。これにより羽柴秀吉の播磨平定は頓挫することになり、毛利攻めどころではな

荒木だし 荒木一族の処刑

1579年9月荒木村重の居城有岡城は信長軍によって包囲され落城寸前の状態にありました。村重は毛利や本願寺と連絡を取り合うため数人の家臣とともに尼崎城に移動していたため城内では村

有岡城(ありおかじょう)の戦い

1578年10月 荒木村重(あらきむらしげ)謀反!の一報が信長の元に届きます。東播磨の大名 別所氏の裏切りにより播磨平定が暗礁に乗り上げる中、摂津の荒木までもが裏切る状態に信

荒木村重(あらきむらしげ)謀反!

織田信長の命により中国攻めの総大将となった羽柴秀吉は三木城の別所長治、御着城の小寺政職、姫路城の黒田官兵衛の助力を得て播磨国の制圧にとりかかります。 織田に敵対する西播磨の福原

三木城の戦い 別所長治(べっしょながはる)と三木の干殺し(みきのひごろし)

羽柴秀吉の毛利攻めは、東播磨の別所氏、御着の小寺氏、姫路の黒田氏の協力を前提に作戦が練られていました。別所氏は東播磨の有力大名でその石高は40万石を超え、多くの国人衆を従えて

第二次上月城(こうづきじょう)の戦い

*東播磨勢力図 秀吉から上月城の守備を任された山中鹿之介(やまなかしかのすけ)は毛利によって滅ぼされた尼子氏の重臣でした。尼子家再興を願う鹿之介は、京に逃れていた主君尼子勝久

第一次上月城(こうづきじょう)の戦い 赤松七条家 赤松政範(あかまつまさのり)

*赤松七条家 系図 福原城を落とした秀吉軍は、上月城(こうづきじょう)に籠もる赤松七条家 赤松政範(あかまつまさのり)の攻略にとりかかります。 赤松七条家とは、赤松家繁栄の祖

福原城(ふくはらじょう)の戦い 福原助就(ふくはらすけなり)

*戦国時代 西播磨勢力図 英賀合戦(あががっせん)で毛利の軍勢を退却させたことにより、毛利攻略の機は熟したと判断した信長は、羽柴秀吉を中国攻めの総大将に任命し播磨への派遣を決

赤松政秀(あかまつまさひで)龍野赤松氏

赤松政秀(あかまつまさひで)は、播磨、備前、美作の守護赤松氏の傍流で播磨国の西側(西播)にある龍野城を拠点に勢力を保持していました。 赤松政秀の系統を龍野赤松氏と呼びますが、

戦国時代備前国勢力図(びぜんのくにせいりょくず)

岡山城・・・宇喜多氏 金川城・・・松田氏 三石城・・・浦上氏 備前福岡城・・・赤松氏(浦上氏) 天神山城・・・浦上氏 播磨国と隣接する備前国(びぜんのくに)は、室町時代から戦

英賀合戦(あががっせん)

武力により天下平定を狙う織田信長にとって東の脅威が武田氏、上杉氏、西の脅威が毛利氏でした。また、宗教勢力である石山本願寺も天下統一の障害となっていました。 信長の急激な勢力拡大

赤松氏系図 室町時代ー戦国時代播磨赤松氏の繁栄と没落

*赤松氏系図 村上源氏の流れをくむ赤松氏は、鎌倉時代末期に赤松円心(則村)が政治の表舞台に登場します。 打倒鎌倉幕府を掲げる後醍醐天皇方についた赤松円心は、足利尊氏や佐々木道

黒田光(くろだてる)櫛橋光(くしはしてる)幸円(こうえん)

櫛橋光(くしはしてる)は、1553年播磨国志方城城主櫛橋伊定(くしはしこれさだ)の娘として誕生しました。光には幸円(こうえん)という名もありますが、これは雅号(がごう)だとされ

小寺政職(こでらまさもと)・小寺氏系図

*小寺氏系図 小寺政職(こでらまさもと)は、御着城城主 小寺則職(こでらのりもと)の子として誕生しました。政職の生没年については史料が存在しないため不明となっています。 小寺

戦国時代 播磨国(はりまのくに)勢力図

*播磨国(はりまのくに)勢力図 小寺氏の御着城、別所氏の三木城、三木氏の英賀城は播磨三大城といわれています。 龍野城(たつのじょう)=赤松氏 上月城(こうづきじょう)=赤松氏

黒田職隆(くろだもとたか)

黒田官兵衛の父黒田職隆(くろだもとたか)は、1524年備前国福岡で誕生しました。父重隆に従い姫路に移住したのち小寺氏の家臣となります。 重隆の跡を継ぎ小寺氏の家老となった重隆は

黒田重隆(くろだしげたか)

黒田重隆(くろだしげたか)は、官兵衛の祖父にあたる人物です。「黒田家譜」によると重隆は1508年に伊香郡黒田村で誕生します。父 高政が軍令違反を犯し近江を出奔すると、重隆も父と

黒田高政(くろだたかまさ)

黒田高政(くろだたかまさ)は、官兵衛の曾祖父にあたる人物です。「黒田家譜」によると佐々木源氏の流れをくむ黒田家は、近江国で一定の勢力を保持しており、1511年に起こった船岡山合

黒田官兵衛系図(くろだ かんべえけいず)・黒田氏系図

*黒田氏系図 織田、豊臣、徳川の世を生き抜き、筑前国福岡藩52万石の藩祖となった黒田官兵衛(くろだ かんべえ)!しかし、黒田氏の出自は謎につつまれています。 官兵衛は、播磨国

黒田官兵衛(くろだ かんべえ)誕生

*黒田官兵衛(くろだ かんべえ) 黒田官兵衛(くろだ かんべえ)は、父職隆(もとたか)と母明石氏の嫡男として1546年12月22日播磨国(はりまのくに)姫路で誕生します。 母