英賀合戦(あががっせん)
武力により天下平定を狙う織田信長にとって東の脅威が武田氏、上杉氏、西の脅威が毛利氏でした。また、宗教勢力である石山本願寺も天下統一の障害となっていました。
信長の急激な勢力拡大に危機を感じた足利義昭、本願寺、武田、毛利は包囲網を形勢しこれを牽制しますが、信長は、連携が十分でないこれら抵抗勢力を個別に撃破する作戦にでます。
信長は1574年に伊勢長島一向一揆を鎮圧し本願寺の勢いをそぎます。1575年に設楽ヶ原において武田勝頼を打ち破り(長篠の戦い)武田氏を弱体化させます(1582年武田氏は滅亡)
1577年には柴田勝家を総大将とする3万の軍勢を加賀国に派遣するとともに毛利攻略を本格的に開始するのです。毛利攻めの中継地となる播磨の大名を味方につけるため諜略活動を盛んに行います。
播磨の大名は、織田につくか毛利につくかの選択を迫られますが、小寺家の家臣黒田官兵衛は、織田の軍事力、経済力は毛利よりも上と読み、主君小寺政職(こでらまさもと)を説得し織田に味方することを決めるのです。
さらに官兵衛は赤松氏、別所氏をも説得し織田方に取り込みます。播磨の有力大名である小寺、赤松、別所の行動に危機を感じた毛利は家臣浦宗勝(うらむねかつ)を播磨に送り込みます。
1577年5月、浦宗勝は5000の兵を率いて英賀村に上陸します。英賀村は現在の兵庫県姫路市飾磨区(しかまく)で、当時は河口であり海上交通の要所となっていました。
また、英賀は一向宗の勢力が強く寺内町が形成され一向衆の活動拠点となっていたのです。本願寺と結んでいた毛利は英賀の一向衆を積極的に支援していました。
毛利軍襲来!の一報を受けた小寺政職は狼狽しますが、官兵衛は上陸して休憩をとっている毛利軍に奇襲攻撃をしかけこれを撃退します。
このとき官兵衛の手勢はわずか5~600人であったとされていますが、地元の農民に小寺家の旗指物を持たせ、小寺の軍勢が後方で陣を構えているかのように見せかけたのです。
奇襲により虚を衝かれた浦宗勝の軍勢は総崩れとなり本国へ撤退します。この英賀合戦(あががっせん)での官兵衛の活躍は信長を大いに喜ばせ、毛利を攻略すべく羽柴秀吉を播磨に出陣させることを決断するのです。