福原城を落とした秀吉軍は、上月城(こうづきじょう)に籠もる赤松七条家 赤松政範(あかまつまさのり)の攻略にとりかかります。
赤松七条家とは、赤松家繁栄の祖とされる赤松円心の嫡男 範資の系統の呼称です。本来は赤松本家(惣領)となる家系ですが、範資の死後、本家の家督は円心の三男則祐が継いだため赤松七条家は不遇をかこっていました。
しかし、1496年に赤松本家の当主である政則が急死すると、赤松七条家の義村が政則の養子となり本家を継ぐことになります。赤松七条家は義村の子である政元が継いだとされています。秀吉軍の攻撃を受けたときの赤松七条家の当主は政元の子 政範でした
上月城は周辺に十七の支城や砦を持つ堅牢な城で、高倉山に赤松義則、利神山に別所定道、徳久山に柏原戸利明を置き織田軍の攻撃に備えていました。
1577年11月29日熊見川(千種川)を渡河する秀吉軍に赤松軍が攻めかかり第一次上月城(こうづきじょう)の戦いが始まりますが、秀吉軍の側面をつく予定だった高倉山の赤松義則が戦わずに退却したため、秀吉は本陣を高倉山に置き兵を進めます。
一方、毛利方は備前の宇喜多氏が上月城を救うべく宇喜多広維を大将とする兵3000の援軍を播磨に派遣し11月30日には秀吉軍と戦闘を交えますが、戦上手の秀吉軍に翻弄され手痛い敗戦を喫し退却を余儀なくされます。
*上月城(こうづきじょう)の戦い
一気呵成に攻めかかる秀吉軍は、上月城の北方にある太平山を奪うと上月城に向け一斉射撃を開始するのです。大量の銃器による一斉射撃は上月城を守る兵の動揺を誘い、その隙に城郭にはじごをかけ秀吉軍が城内に侵入!
12月3日落城を覚悟した赤松政範は自害!秀吉軍は上月城を陥落させることに成功します。秀吉は降伏した上月城の兵を残らず斬首します。さらに、婦女子200人を備前、美作の国境に連れて行き、見せしめのため惨殺!女性は磔にされ、子どもは串刺しにされたそうです。
秀吉は上月城の守備を尼子家の重臣 山中鹿之介(やまなかしかのすけ)に任せ、戦勝を報告すべく信長のいる安土に向かうのです。