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有岡城(ありおかじょう)の戦い

有岡城の戦い 播磨、摂津国勢力図

1578年10月 荒木村重(あらきむらしげ)謀反!の一報が信長の元に届きます。東播磨の大名 別所氏の裏切りにより播磨平定が暗礁に乗り上げる中、摂津の荒木までもが裏切る状態に信長の天下布武は危機に直面します。


11月になると信長は自ら出陣し京に入ります。村重は居城有岡城に籠もり嫡男村次を尼崎城に入城させ、花隈城の荒木元清、村重に同調した茨木城の中川清秀、高槻城の高山右近とともに毛利や宇喜多、本願寺と連携をはかり信長の攻撃に備え対決姿勢をあらわにするのです。


各地で戦闘を行い兵力を分散している信長にとって摂津一国を力攻めにするにはリスクが大きいことから、家臣の村井貞勝に命じて石山本願寺と和議を結ぶ交渉を進めるとともに、村重に従っていた高槻城の高山右近の切り崩しに取り掛かります。


当初、高山右近は信長に逆らうことは無謀である!と考え、村重の謀反を思いとどまらせようとしました。右近はすでに村重に人質を差出していましたが、さらに嫡男をも人質として送り説得を続けたため、村重は一時謀反を思いとどまります。


しかし、信長の残虐な行為を見てきた村重は、二心を抱いた自分を許すはずはない!との考えから信長と対立する道を選んだのです。信長は高山右近がキリシタンであることを利用し、宣教師オルガンティノに命じ右近を説得させます。


信長はオルガンティノに対し「右近を説得すればキリシタン教会をどこに建ててもよいが、失敗すればキリスト教を禁教にする!」という条件を突きつけるのです。


追い詰められたオルガンティノは、高槻城へ赴き翻意を促します。高槻城では信長に従うべきとする右近派と信長と決戦すべし!とする友照(右近の父)派に分かれます。窮した右近は、剃髪して領地を返上することで信長に従うことを決定するのです。


オルガンティノに伴われ信長の元に赴いた右近は、信長着用の小袖と愛馬を与えられ摂津の芥川城を与えられます。一方、友照は有岡城に赴き事の詳細を村重に報告し自らが人質となることを申し出るのです。


高山右近が信長に下ったことを知った茨木城の中川清秀や他の国人衆も村重から離反したため摂津で信長に対抗する勢力は荒木一族のみとなります。信長は明智光秀、滝川一益、羽柴秀吉、蜂屋頼隆、細川藤孝らの軍勢に命じて有岡城を包囲し本格的な攻撃を開始しますが、堅牢な有岡城の守備は堅く信長は手を焼きます。


一方、有岡城の荒木軍も局地戦では敵を打ち負かすことはあったものの、援軍が来ない状況下で10ヶ月近くの籠城戦を戦い次第に疲弊していきます。1579年9月2日、突如村重は数人の供を従え夜陰に紛れ有岡城を抜け出し尼崎城へ向かいます。


村重はなぜ家族と家臣を置き去りにして尼崎城へ移動したのでしょうか?通説では先の見えない戦いに絶望して逃亡したとされ、この行動により村重は「卑怯者」というレッテルをはられます。


しかし、近年新たな史料が発見されました。尼崎城に移った直後(9月11日)に村重が信長と敵対する雑賀衆に援軍を要請したとされる書状です(伊丹市立博物館蔵)この史料の発見により村重は絶望して逃亡したのではなく、信長に反撃するため毛利や本願寺、雑賀衆と連絡のとりやすい尼崎城に移動したのだとする説が浮上したのです。


尼崎城への移動は織田方に知られないよう村重と数人の重臣のみで話し合われ極秘裏に実行されました。そのため多くの家臣は村重の移動を知らなかったのです。しかし、この村重の行動は信長方に知られることとなり逆に利用され「村重が敵前逃亡した!」との噂を流されます。


織田軍の武将 滝川一益は動揺した城兵を巧みに誘い内応することを約束させると有岡城に総攻撃をしかけます。堅牢な有岡城も内応者が出たことにより内から崩壊し、織田軍の侵入を許し二の丸が落ち本丸を残すのみとなります。


信長は有岡城の荒木一族に対し「尼崎城と花隈城を明け渡せば、人質の命を助ける」という条件を掲示して開城を迫ります。落城寸前の有岡城では信長の条件を受け入れ、荒木久左衛門らが尼崎城に赴き村重を説得します。しかし、村重はこの条件を断固として拒絶するのです。


尼崎城には毛利や本願寺、雑賀衆からの援兵も多数詰めており、自分の家族、家臣を救うために彼らを裏切ることはできなかったのです。信長の残虐性を知っている村重は、尼崎城と花隈城を明け渡しても皆殺しにされると考えていたのかもしれません。


村重の説得に失敗した荒木久左衛門らは有岡城へは戻らずそのまま逃亡!信長は有岡城にいた村重の妻だしを含む荒木一族とその家臣らを処刑します。


有岡城落城後も抵抗を続ける村重でしたが、1579年12月尼崎城を捨て花隈城に移りさらに戦い続けますが、1580年7月力尽き毛利領へ逃亡するのです。


本能寺の変で信長が自害すると村重は出家して武将ではなく茶人として生きていくことを決め、千利休の高弟である利休十哲(りきゅうじってつ)に数えられるまでになります。


村重は秀吉の相伴衆となり自らを道糞(どうふん)と名乗りますが、秀吉の命で「道薫」に改めたそうです。荒木村重は1586年5月堺において52年の生涯を終えます。