東播磨の別所長治(べっしょながはる)の裏切りは播磨平定に尽力してきた黒田官兵衛にとって衝撃の事件でした。これにより羽柴秀吉の播磨平定は頓挫することになり、毛利攻めどころではない状況に追い込まれます。
さらに、それまで織田軍の武将であった摂津国の大名荒木村重までもが信長を裏切るという信じられない事が起こるのです!この村重の謀反に同調して官兵衛の主君である御着城城主 小寺政職(こでらまさもと)も不穏な動きをみせるようになります。
小寺も裏切る!そんな風説が流布されるにおよび官兵衛はいてもたってもいられず、事の真相を確かめるべく三木城攻めの陣から御着城に向かうのです。御着城に到着した官兵衛に対し、小寺政職は荒木に同調して毛利に味方すると伝えます。驚いた官兵衛は織田を裏切れば小寺家は滅亡すると説き政職に翻意を促します。
これに対し政職は「荒木村重が謀反を思いとどまれば自分も信長に敵対することはしない」と約束をするのです。政職の言葉を信じた官兵衛は単身有岡城に乗り込み村重の説得を試みますが、村重により有岡城内の牢に幽閉されてしまうのです。
政職はすでに信長を見限り毛利に味方することを決めていました。そのため邪魔になる官兵衛の殺害を村重に依頼していたのです。しかし、村重は官兵衛を殺害せず幽閉にしました。なぜ、官兵衛を幽閉にしたのでしょうか?
ドラマや小説では官兵衛と村重は親しい関係とされ、官兵衛を殺害することができなかった村重が仕方なく幽閉したかのように描かれています。しかし、実際はそれほど親密ではなかったとする説もあります。
官兵衛と村重が面識を持ったのは官兵衛が信長に拝謁した1575年以降だと考えられます。1578年に幽閉されたわけですから二人が接触したのは3年程度の期間です。官兵衛は主に播磨国内の調略に奔走し、村重は石山本願寺の対策に追われていたため、二人が直接会った回数はそれほど多くないと思われます。
「武功夜話」には、村重が官兵衛のことを「播州で小ざかしく動き回っている者」と評している記述が見られ、あまり好意的でなかったことが伺えます。官兵衛の命を助けたのは親しい間柄だったからではなく荒木村重の性格によるものとする説があります。
荒木村重という人物は「豪勇」で「実直」「人命を尊重」する性格であったようです。村重の謀反が露見したあとも信長は村重と親しかった武将を有岡城に送り説得を試みていますが、このとき派遣された武将たちを誰一人傷つけることなく信長の元に送り返しています。
また、村重から離反した高槻城主高山右近の人質も殺さず生かしています。このことから官兵衛のことも初めから殺すつもりはなく、小寺政職の手前そのまま返す訳には行かなかったので幽閉したのだというのです。
官兵衛が幽閉された牢は有岡城の本丸内にあったようですが、竹やぶと池に囲まれた劣悪な環境でした。天井は立ち上がることができないほど低く、横になって手足を伸ばすことができなかったとされています。
有岡城から戻らない官兵衛を信長は裏切ったと思い込み人質にとっていた嫡男松寿丸の処刑を秀吉に命じますが、竹中半兵衛の機転により松寿丸は匿われ命拾いします。
官兵衛の行方を必死で捜していた家臣たちは、官兵衛が有岡城で捕らえられ幽閉されているとの情報得ます。栗山善助、井上九郎右衛門、母里多兵衛ら腹心の家臣たちは夜陰に紛れ牢を囲んでいた池を泳ぎ官兵衛に接触していたようです。
織田軍の攻撃に備え警戒を強めている城に本当にもぐりこむことができたのか?もしこの話しが事実であれば村重が黙認していたと思われます。村重は牢を見張る看守に加藤重徳を任命していました。この加藤重徳は心根の優しい人物であったようで、幽閉されている官兵衛を気づかい親身になって世話をしたそうです。
このように情の厚い人物を看守にしたことは、村重が官兵衛を気づかっていた証拠だとされています。有岡城は10ヶ月におよぶ籠城戦を戦ったのち落城します。官兵衛は落城時に栗山善助によって救出されますが、劣悪な環境下での幽閉生活で足が不自由になり、歩くこともままならない状態であったといわれています。
官兵衛は幽閉中に面倒を見てくれた看守加藤重徳から受けた恩を返すため、重徳の次男 玉松を養子に迎えわが子同様に育てるのです。玉松は成人して黒田一成を名乗り黒田家の重臣となります。戦場での働きが目覚しく勇猛果敢な武将で黒田八虎のひとりとなり、福岡藩では1万6000石を拝領しました。
また、官兵衛は自分を幽閉した村重の子どもたちも家臣に迎え入れます。村重の娘ふたりを黒田家の重臣 間家と田代家に嫁がせます。さらに、村重の孫 村満を官兵衛の孫である忠之(福岡藩2代藩主)の家臣に加えるのです。