因幡国(いなばのくに)は現在の鳥取県東側で、播磨国、但馬国、美作国、伯耆国と隣接していました。室町時代には山名氏が守護となります。
山名氏は新田氏の一族で、源義家の孫である新田義重の子義範を祖とします。建武の新政において山名時氏(やまなときうじ)は、当初新田義貞と行動を共にしていましたが、その後足利尊氏側につき室町幕府では侍所の頭人(所司)に就任します。
時氏死後も山名氏は勢力を拡大し、最盛期には但馬、伯耆、備後、隠岐、紀伊、美作、丹波、山城、和泉、丹後、出雲、因幡十二ヶ国の守護に任じられますが、応仁の乱による争乱、下克上によりその支配力を徐々に低下していきます。
因幡国では天神山城を拠点に長い間山名氏が勢力を保ってきましたが、戦国時代になると鳥取城の城代であった武田高信(たけだたかのぶ)が山名氏から離反!毛利と手を組み因幡国で勢力を広げます。
これに対し山名豊国は毛利に滅ぼされた尼子氏の残党(尼子勝久、山中鹿之介)と結び武田高信に対抗するのです。豊国は但馬国の芦屋城主 塩冶高清(えんやたかきよ)を味方につけ反転攻勢にでると武田高信を駆逐して鳥取城を奪い返します。
その後、吉川元春が大軍を率いて因幡に進軍すると降伏し毛利の支配下に組み込まれます。1581年播磨国を制圧した羽柴秀吉が因幡に進行!山名豊国の鳥取城を包囲します。
秀吉の調略により降伏を受け入れた豊国でしたが家臣がこれに猛反発!徹底抗戦を叫ぶ家臣団によって豊国は追放されてしまうのです。
鳥取城では毛利から吉川経家が派遣され城番となり羽柴軍と対峙しますが、兵糧攻めにあいあえなく落城!
因幡国は織田の支配下に置かれます。江戸時代には因幡国と伯耆国の二国にまたがり鳥取藩(32万石)が新設され、池田氏が藩主に就任します。江戸時代を通して池田氏による統治が行われ明治に至ります。