信長の命令により備中に侵攻した羽柴秀吉は、清水宗治の居城備中高松城を水攻めにして落城寸前に追い込みます。
対する毛利も総大将の輝元自ら出陣して救援に向かいますが、要所を秀吉方に占領され水没する高松城を目の前に打開策を見出せずにいました。
有利な戦況の中で秀吉は信長に援軍を要請します。最期の仕上げを任せることで信長の機嫌をとるとともに、毛利との和睦交渉を一気に進める効果を狙ったものでした。
秀吉の要請を受諾した信長は、明智光秀に備中への出陣を命じます。天正10年(1582年)6月2日 出陣準備のため京都本能寺に100名ほどの供回りとともに宿泊していた信長は明智光秀の謀反にあいその生涯を終えます。
光秀は各地の有力大名に信長を討果たした旨を記した書状を送り自分に味方をするよう誘います。秀吉と対峙していた毛利の元にも当然書状が送られましたが、密使が毛利の陣中に到達する前に秀吉方に捕まり事が露見するのです。
信長の横死を知り泣き崩れ茫然自失となる秀吉!その秀吉に対して黒田官兵衛は「これで運が開けましたな」と耳打ちします。官兵衛の言葉に我に返った秀吉は光秀を討つべく毛利との停戦交渉を開始するのです。
秀吉と官兵衛は本能寺の変を毛利に知られないよう街道の見張りを強化し情報の遮断を行うとともに、毛利方の交渉役である安国寺恵瓊(あんこくじえけい)を呼び和睦交渉を再開します。
秀吉はそれまでの交渉で備中、備後、伯耆、美作、出雲の割譲と清水宗治の切腹を和睦の条件にしていましたが、備中、伯耆、美作の三カ国割譲と清水宗治の切腹で交渉をまとめようとします。
信長の死をまだ知らない毛利ではこの条件を受入れ講和を締結するのです。6月4日清水宗治の切腹を見届けると秀吉はただちに陣払いの準備を進めるとともに、信長は生きているという内容の書状を畿内の武将に送り光秀に味方しないよう働きかけます。
毛利の動向をうかがっていた秀吉は6日になると陣払いを行い、杉原家次(すぎはらいえつぐ)を城代として高松城に残し、備前の沼城に軍勢を移動します。
信長の死を知った毛利がいつ追撃してくるかわからない状況の中、殿(しんがり)をつとめた黒田官兵衛は、堤防の堰を切り高松城周辺の湿地帯を水浸しにして毛利に備えますが、何もおこらないまま沼城へ無事到着するのです。
毛利が本能寺の変の一報を受取ったとき、すでに秀吉軍は陣払いを行い沼城に向けて移動を開始していました。吉川元長(元春の嫡男)など血気にはやった一部の武将が秀吉軍への追撃を主張しますが、小早川隆景はこれをいさめ講和の約定を守ったのです。
別の説では、秀吉にまんまとはめられたことに激怒した吉川元春が追撃を主張しますが、小早川隆景は信長亡き後の有力な後継者である秀吉に恩を売っておくことは毛利のためになるとして元春を説き伏せたとされています。
6日に沼城に着いた秀吉軍は、さらに走り続け8日には姫路城に帰還します。秀吉は姫路城に蓄えてあった金と兵糧をすべて兵士たちに分配します。光秀との決戦に向けて兵士の士気を鼓舞する秀吉!この秀吉の覚悟に奮い立った兵士は9日に姫路を出立し11日に摂津の尼崎に到着します。
高松城から備前沼城まで約20キロの距離を1日、沼城から播磨の姫路城まで約70キロの距離を2日、姫路城から摂津の尼崎まで約80キロの距離を2日で走破したことになります。
現在のように道が整備されていなかった戦国時代、武装した兵士がこれほどの早さで移動するのは驚くべきことでした。凄まじい早さで備中高松城から摂津尼崎まで戻ってきた秀吉!光秀につくか迷っていた畿内の武将たちは勢いにおされ秀吉に味方をします。
さらに、四国の長宗我部を攻めるため準備中であった織田信孝(信長の三男)と丹羽長秀の軍も合流したため秀吉軍は4万近くにまでふくれあがります。兵力で明智を上回った秀吉は決戦の地 山崎へと進軍するのです。